日常

新作能『冥府行 ~ネキア』

2016-01-24 12:25:53 | 芸術
先日、国立能楽堂で 新作能『冥府行 ~ネキア』を観てきました。

それはそれは強く深く、心を動かされました。

自分のこころの深層を揺り動かされると、そこは明確な形をもった言語世界がない層です。その層に対応する言葉を見つけることができず、容易には言葉にできません。対応する言葉がすぐ近くには見当たらないのです。
その後、3日が経過しました。すると、自分の中に表現したいことばがふと浮かんできました。

ここ3日は仕事も多忙を極めていましたが、ふと眼をつぶり心を落ちつかさせると、謡いの言霊の振動や舞いの残像などが、湖面の月が水面にうつるかのように、心の層に転写されてうつっているのを感じていました。


・・・・・
ちょうど今引っ越しの時期で、毎日引っ越しの準備をしています。
部屋の中を整理し、不要なものを思いきって捨てていく。
この外的な作業は、内的世界と構造的に共鳴していくようです。
外的に体で動かす行為は、内的に心を動かす行為と同じ事のようです。

その行為の中で、こころの深層が露わに露出してくる。掃除の行為と不思議なシンクロニシティーを感じていたのでした。


能楽は、極限までそぎ落としていく芸能です。
本質に狙いを定め、その原型となる骨格だけを掘り起こす。

鑑賞者は、抽象的な密度の高い原型だけを観ることになるので、一見すると表層意識では合理的な解釈が難しいのです。人のいのちを支える内臓世界を観るようなもの。
だからこそ、受け取った鑑賞者たちが、古代遺跡の発掘作業のように、自分の感性や人生の経験から復元していく作業がセットになっています。

古典世界というのは、常にそういう相互交流の受動と能動とが共存する世界によで立ち上がってくるのだと思います。








今回の新作能『冥府行 ~ネキア』は、非常に野心的な試みでした。

古代ギリシャの長編叙事詩であるホメロス「オデュッセイア」を能に仕立てたものです。
ミハイル・マルマリノスさんというギリシア人の演出家と、笠井賢一さんという日本人の脚本家とで共同して作り上げています。困難な共同作業だからこそ、誰も見たことがないものが生まれる可能性があります。もちろん危険性も伴うわけです。


「オデュッセイア」は、ギリシャ軍の英雄であるオデュッセウスの、トロイ攻略後から帰国までの波乱に満ちた10年を描く冒険物語です。
「オデュッセイア」第11章の「ネキア」を下敷きとして、魔女キルケー(梅若玄祥先生)の助言に従い、死後の世界に行ったオデュッセウス(観世喜正)が、ライバルを含む戦乱の死者たちや、予言者のティレシアス(玄祥の2役)と出会い、思いを聞き、再度帰還してくる物語です。
私たちも、追体験します。

ギリシア人のマルマリノスさんは、日本に来た時に能楽を観て感動し、あの世とこの世とを容易に行き来する能楽の形でこそ「オデュッセイア」の世界を伝えたいと考え、今回の公演へつながったようです。そこには長い助走がありました。


ちなみに、
オデュッセウスは自身の過ちから海神ポセイドンの起こした嵐に遭い島に漂流します。そこで王女ナウシカに助けられるわけですが、この王女ナウシカの名前が宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』のモデルです。
また、長い冒険旅行を意味する「Odyssey(オデッセイ)」も、この「Odyssea(ラテン語)」に由来しているのです。

ギリシア人にとって『オデュッセイア』(ΟΔΥΣΣΕΙΑ, Odysseia, Odyssea)という作品は、極めて重要な意味を持つ作品とのこと。
だからこそ、能楽の表現と、ギリシア人の思いを壊さない演出とのせめぎ合いが必要とされ、繊細な気遣いが随所に必要だったようです。


梅若玄祥先生は、ギリシャのエピダウロスにある古代円形劇場にて「アテネ・エピダウロスフェスティバル2015」でお能を演じられました。
その様子は、今年の冒頭にBS朝日で放映されました。本当に素晴らしい内容でした。
今回の能舞台でも、少しこの放映がスクリーンで写されたのです。是非通常放送で再放送してほしいですね。
⇒○BS朝日「世界遺産で神話を舞う ‐人間国宝・能楽師とギリシャ人演出家」(2016年1月3日(日))

実は、自分も梅若玄祥先生が下見に行った同じ地にいっています。
Epidaurosの写真も一部載せています。
⇒●ギリシア
⇒●Greece_01_Athens_Epidauros




今回の新作能『冥府行 ~ネキア』を観て感じたのは、「時」・「鎮魂」・「いのち」のことです。

わたしたちは、<過去、現在、未来>という時を漠然と意識しながら日々生きています。

医療世界にいる自分はよく感じのですが、心の病の原因として到達するのは、瞑想や心理療法など、どの手段でも同じところに到達します。
それは、いかにわたしたちが「過去の後悔」や「未来の不安・心配」に明け暮れていて、そのことに苦しんでいるのか(自分で自分を苦しめているのか)、ということです。現在に生きていないのです。


「体」は「いま・ここ」にしか存在し得ませんが、「あたま」が生みだす世界は常に「過去」「未来」を行ったり来たりすることができます。
人類がそうした「あたま」の能力を得たことで、過去の出来事を反省して未来に生かし、学習・成長することができました。地球の生物の中で人類が急速に力を持った特殊能力でもあったのだと思います。
ただ、いい面には悪い面が、必ずペアとなり存在します。
それこそが、「あたま」が生みだす「過去」「未来」というバーチャルリアリティーの世界に振り回され続ける、ということです。しかも、その上演者は「自分」でもあります。



ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』は最古期の古代ギリシア長編叙事詩。詩自体は紀元前8世紀に、文字化は紀元前6世紀頃とされています。

2500年近く前にも人類は確かに呼吸して生きていたわけですが、そのことを想起することは非常に困難です。
土地も違い、来ている服も食べているものもすべてが違う。車も電気もパソコンもない時代の日々は、そう容易く想像することができません。

だからこそ、そういう遥かな時を隔ててつながるには、ちょっとした前準備が必要になるのです。少しの跳躍のために。
能楽が伝えてきている細かいひとつひとつの様式は、まさにそうした「時」を超える心と体の叡智の結晶だと思うのです。

私たちが通常起きて生活している表層意識は、「現在」を起点として「過去」と「未来」とを夢想しています。もちろん、それは現在の現実を変える力をも持ちます。

ただ、私たちが眠っている時、「現在・過去・未来」は一つに入り混じり、「時」という概念すら存在しません。
夢の世界を思い出してみると分かります。
わたしたちの現実世界の定点として存在している「時間」や「空間」という概念から自由になっているのではないでしょうか。

どうやら、「時」という概念そのものが、人が通常の生活を送っている表層意識で作り上げた世界での、人類に特有の特殊な現象なのかもしれません。

能楽は、その特殊な状態を、巧みに鮮やかに扱う芸術なのです。



この公演はこういう言葉で始まりました。

=============
コロス
「オリンポスの神々よ
 みそなわせ
 われらは東の果て 
 日のいずる国
 ひのもとの能の一座
 
 死せる魂を呼び出し
 その声を聞き供養する鎮魂の芸能者
 若き梅の芳しき香りとともに
 オリンポスの神々の地に降り立ち
 オデュセウスの魂魄を呼び戻し 
 遍歴の有様
 今ここに目の当たりにせん」
=============



能楽では、原初の世界である「時」が存在しない状態へ誘うために、特殊な意識状態を前準備として作りあげていきます。
それが、囃しや鼓などの拍子。
他にも、謡いで行われる、言霊の響きそのもの。
ことばには、表層世界での意味内容を伝える以前に、振動や波動としての呪術的な性質が残っています。

合理的なものだけで構成された社会では、言葉の上澄み液としての<意味・内容を伝える働き>だけが残滓として残っていますが、能楽や狂言で行われる「謡い」の言霊には、人類が生み出した「ことば」という手段の原始的で呪術的な性質がいまだに息づいていると感じます。
それは、「あたま」でやり取りすることばの意味以前の世界です。心や魂で振動として感じる、ことばの力です。

そうした様々な身体技法や能舞台の空間設定により、鑑賞者は「時」が溶解する原初的な一なる世界に連れて行かれます。
そこでは、実際に、オデュッセイアがいる、のです。



では、死者と生者の違いはどこにあるのでしょうか。

わたしたち生きているものには、死者が残した思いを受け取り、引き継ぎ、次の世代に渡していくという役割があります。
それは、死者の本当の思いをよく聞き、その思いを自分が受け取ろうと決めて、実際に受け取ることです。
それは、生者にしかできません。しかも、形に残るものではありません。目にも見えません。

しっかりと思いを受け取ることが、鎮魂という行為なのではないでしょうか。


生者にしか、死者の思いを受け取ることはできない。
死者は、そうした思いを持った生者がやってくるのを、ただただ待ち続けるしかないのです。


能楽の舞台では、能楽師たちが人生をかけて鍛錬した身体から為された高度な心身技法により、死者の思いを受け取るための前準備が巧妙に何重にも張り巡らされています。


死者の声を聞き、死者のほんとうの思いを受けとる。
いのちはそうして受け渡されており、バトンを渡し続けるのは、常に私たち生きている人間なのです。
過去の死者から思いを受け取り、未来の人へと希望を託して受け渡していく。
それこそが、生者の役割だと自分は思います。



2時間近くの濃密な「時」を場全体で共有した後(この時間は体験そのものであり、今でも体の奥に響きつづけています)、この公演はこういう言葉で終わります。

=============
コロス
「鎮めよあまた流された血潮
 鎮めよ無念に討ち倒された屍を
 海よたぎれ
 森よざわめけ
 吟遊の詩人よ
 永い物語れ
 鎮魂の芸能者語り舞え
 命たぎらす修羅の戦いを
 敗れ去りしものの修羅を
 勝ちしものの修羅の道」

全員
「オデュッセウスよ
 汝の放浪と帰還の物語りは
 吟遊の詩人ラブソドス
 我ら鎮魂の芸能者によりて
 永久に語り継がれるであろう」
=============



英雄譚として語られている物語。
表面的には、英雄が悪いものを懲らしめた、というような分かりやすい話として伝えられていることもあるでしょう。
ただ、物語世界は、本当はもっと多くの人たちとの共同世界で織りなされています。

オデュッセイアだけではなく、その家族や部下もいる。勝った勇者だけではなく、敗者となった人も数多くいる。その人たちにも親がいて、友人がいて、家族がいる。その戦乱に巻き込まれて亡くなった同時代の人たちも数え切れないほどいる・・・・。

英雄や主役だけではなく、そうした多くの人たちの思いを受け取ることが「物語世界」に込められていると思います。
入りやすさ、面白さ、というのは、物語りの仕掛けです。まず入口に入ってもらうための技術的な方便として・・・・。





物語りのゲートを開けて中に入る。
耳をすます。
そこで多数のいのちの声を聞く。
しっかりと死者の声を聞く。
表層だけではなく深層の思いを聞く。
後悔も喜びも、様々なものがある。
しっかりと自分の中に流し込む。
それは血となり肉となり、いのちとなる。
そうして、いのちは自分だけのいのちではなくなる。
オデュッセイアもティレシアスもキルケ―も、すべてのいのちが自分の中に混然一体となって溶け込む。ひとつになる。
何かが手渡され、受け取られる。

物語りのゲートをくぐり、そういう体験をする。
再度そのゲートを出ると、自分のいのちの組成はすっかりかわってしまっている。

ゲートの役割を担うのがアートです。
アートは技術であり、芸術です。
能楽とは、まさに死と生を、過去や未来や現在を、いのちとしてひとつに統合するためのゲートであり、アートなのです。


能楽の体験の後から、自分の中に、オデュッセイアもティレシアスもキルケ―もアンチクレアもペネロペイアもエイロペイルも・・・・重なりあい生きているのを、感じます。
何かが受け渡されたのです。
受け継いでいくものと、もうしてはならない、ということ、様々なものを一塊として。
日本やギリシアという国境やことばや民族や場所の「空間」の概念を超えて、
いま、むかし、みらい、、、という「時間」の概念を超えて・・・。


いのちは、頭ではなく、体全体の体験として、受け継いでいくものなのでしょう。
芸能や芸術からは、そういうことも感じます。
あくまでも、体験として。


=============
「オデュッセウスよ
 汝の放浪と帰還の物語りは
 吟遊の詩人ラブソドス
 我ら鎮魂の芸能者によりて
 永久に語り継がれるであろう」
=============



===================
2016/1/20(水)新作能『冥府行 ~ネキア』 再演
場所:国立能楽堂
舞囃子 隅田川:観世清和(特別出演)
新作能『冥府行 ~ネキア』
ティレシアス(預言者)およびキルケ―(鷹の魔女):梅若玄祥
オデュッセイア:観世喜正
アンチクレア(母):馬野正基
ペネロペイア(妻):角当直隆
エイロペイル(甥):川口晃平
狂言・俳(おかし):山本則重
狂言・優(うれし):山本則秀
子方:西尾萌
コロス…山崎正道、梅若基徳、小田切康陽、松山隆之、梅若雄一郎、馬野正基、角当直隆、谷本健吾、川口晃平、御厨誠吾
囃子方…竹市学、大倉源次郎、亀井広忠、前川光範
原作:ホメロス作「オデュッセイア」
能本脚本:笠井 賢一
節付:梅若 六郎玄祥
演出:ミハイル・マルマリノス
能楽囃子監修:大倉 源次郎
プロデューサー:伊藤 寿
エグゼクティブプロデューサー:西尾 智子、ヨルゴス・ルコス
===================

今後、国立能楽堂では素晴らしい演目が目白押しです。
みなさまも、日本が生みだした世界に類のみないこの素晴らしい芸術を感じてみて下さい。

この日本に、同時代に、
<われらは東の果て 日のいずる国 ひのもとの能の一座>
<我ら鎮魂の芸能者>
の方々が存在していることに深い感謝と感動を覚えます。


深い泉が湧いています。
周りの人は、泉の近くに連れて行くことはできます。
ただ、その水を本当に飲むかどうかは、本人にしかできないのです。












<参考>
→○芸術と医療(2015-12-14)
 ○たましいと芸術(2015-11-30)
 ○お能『イナンナの冥界下り』(2015-11-14)
 ○杉本博司 新作能「巣鴨塚」(2015-11-11 23:11:11)