日常

「生きなおすのにもってこいの日」田口ランディ

2009-09-14 01:16:55 | 
ランディさんのエッセイ集の新刊が出た。
ランディさんの文章からはいつも思考を刺激される。そして考える材料をくれる。

読書後に自分で何かを探しに行きたくなる文章こそ、いい本なのだと思っている。


あまりに完成された文章だと、そこで思考体系が閉じる。
そして、僕らはそれを享受するだけで終わる。
まるで、餌をもらうために池から口を開けている鯉のような存在になっている。



いい本は、そこで閉じられていない。読者に向かって開かれている。

だから、残りを自分が探しに行かないといけない。そこで自分が動いて、初めて「分かる」。
最後の数ピースを自分で埋めて、そのジグソーパズルは完成する。



たとえば、自然の良さ、山の良さは、実際に行ってみて自分の五感や第六感や、自分のからだを含めた全体で感じないと「分からない」。
そこに行かないと、文章や写真でいくら自然の良さを連呼されても、絶対に自然は「分からない」。

文章は「ことば」だから、せいぜい視覚、聴覚、触覚くらいの感覚しか使わない。脳内現象だけで完結して閉じてしまう恐れがある。


ランディさんの文章は、自分にとってはそこで閉じられていないように感じる。
いい意味で突き放してくれる。
「甘ったれるな、あとは自分で考えろ」と言われているように思えるときがあって、そこから自力で掴みに行かないといけない。

誰でもそうだと思うけど、自分が「分かった」と本当に腑に落ちない限り「分からない」ままである。
自分で自分を騙して「分かった」ふりをしてもしょうがない。
読書は自分のために行うのが基本である。



前置きはこれくらいにして、「生きなおすのにもってこいの日」田口ランディ(バジリコ)の文章から、刺激をうけた文章を紹介します。
気になった人は、ぜひ買って読んでみてください。


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【本文P28】
空想と妄想は違う。空想は創造的だが、妄想は病的だ。
人間が元気になるためには空想が必要なのだ。
そして空想は孤独によって助けられる。繋がりっ放しの状態は人を妄想的にする。
孤立は人を苛むけれど、孤独は豊饒で美しい。
いま、孤独になるのがとても難しい時代になった。

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「聖なる母と透明な僕」(青土社)(→雑誌『風の旅人』に連載されていた短編集)の中にも、『マタギの後姿に、孤独は孤立ではなく孤高にいたる可能性を見たのではないか』という一節があって心に響いた。(以前 、自分のブログに感想を書いたこともある。)


孤独とは、ひとりということであり、それは自分と向き合うということであり、自分が自分になっていくプロセスのことを指すのだと思う。


インターネットも携帯電話も、常に何かとつながっている状態であり、常に人との関係性がONになっている状態である。
Offになりにくい時代で誰もが包まれている。


個人的には、自分が孤独に向き合う時間は『読書』と『登山』である。
読書では主に「こころ」と、登山では主に「からだ」とで孤独に向き合う。


寂しいからと言って、安易に人と群れるのはよくない。
群れることは、「今」孤独に向き合う時間を先送りにしているだけで、先送りにすればするほど、自分にとっての孤独が変質してくる。
「孤独」が「孤高」へと向かず、「孤立」へと向きだす危険性が増すかもしれない。


孤独は、「閉じる」作業だから、「閉じたまま」ではよくないことも理解していないと危険である。「閉じた」ままで戻ってこれないことがある。


登山は登って下山してきて一巡するのと同じで、閉じるのは開くためにあり、開くのは閉じるためにあるから。



僕は「空想」とは「無目的に考えること」に近いと思う。
何か目的を持って、打算を持って考えるのではなくて、ただ考える状態に身を委ねる。

覚醒時に脳の中で無秩序が起きていて、睡眠時に脳の中で秩序化が起きているとすると、そういうボーっとして空想にふけっているときは、無秩序と秩序が同時並行で起きている状態なのだと思う。起きているようで寝ていて、寝ているようで起きている。意識と無意識が錯綜している状態なのだと思う。


こんな「忙しい」時代や年代だからこそ、そうやってボーっと孤独に空想にふける時間は大事だ。




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【本文P53】
まだ精神的に未熟な子どもの自殺は「うっかり自殺」が多い。
・・・・・・・・・・・
ほんとうは「もだえ苦しむ心」をらくにしたかったにすぎない。
マスコミはステレオタイプの言い回しを捨てて、正確に状況を伝えたらいいのだ。
誰だって、心が楽になれば生きていたいはずだ。
だったら、心をどうにかすればいい。間違って肉体を殺すのは「うっかり自殺」である。

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「うっかり自殺」のネーミングは面白い。

自殺しようとしているとき、確かに脳の中のスイッチを一時切りたいだけなんだと思う。「こころ」を一時休止状態にさせたいだけなのだと思う。

そこで、「からだ」が死んでしまうのは検討違いなのだと、確かに思う。
なぜなら、「からだ」はそんなときでも生き続けようとしているものだから。

「からだ」は、基本的に常に生きている。生き続けている。
「からだ」が死ぬとき、おのずから死ぬものだ。勝手に動かなくなる。勝手に機能停止する。


だから、「こころ」が死にたいとメッセージを送ってきたとき、それは「からだ」のメッセージではないのだから、「こころ」だけを休ませて楽にして空っぽにする方向へと向かわないといけない。
そして、「こころ」の自殺は不可能であるから、そんなときは「こころ」を一時オフにして、「からだ」が生きている状態に、ただ身を委ねればいいんだと思う。


それは、ただ寝て、起きて、ご飯を食べて、出るものを出して、そして寝ればいい。
ただ、それだけを繰り返せばいいんだろう。

「からだ」が生きていると、「こころ」は変化してくる。
少し長く生きている人間はそれを知っている。
だから、「うっかり自殺」は見当違いなのだろう。




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【本文P92】
圧倒的な日常が世界を覆っている。このやわらかな被膜が私たちを守っている。
・・・・・・・・・・・
もし、この被膜がはぎとられても、我々庶民にできることは、ただそっと、脆い日常という被膜が回復し、かろうじて世界を覆うようになるために、昨日と同じ暮らしを続けることだ。無力に見えるかもしれないが、他になにができるだろうか。

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日常や生活こそが人生の99%以上を占めていると思える。
僕らは人生にドラマ性を求めるけれど、実は平凡な日常がほとんどである。
1日の3分の1は寝ているんだから、ある意味当たり前でもある。


だからこそ、そんな圧倒的な日常を受け入れ、肯定していくことこそが、実は最も大事なのかもしれない。
そして、それは誰もが今からでも実践できることであるから、誰にとっても平等で尊い作業である。





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【本文P105】
感情は自然現象なので力でコントロールすることができない。だから理性と知性だけで世界に対処できると考えている人たちが一番怖いのは、実は自分の感情なのだ。
だけど、この世界には、自分の感情をありのままに受け止められずに恐怖や恐れや畏怖を封じ込めている頭でっかちの人たちがたくさんいる。
そういう人たちの、押し込められた感情はときとして、大きな事件につながったりする。
人間の精神活動の優位に知性だけを置く人は、自分の感情も他者の感情も受け入れがたい。

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【本文P106】
台風の発生に必要な条件がそろえば、地球上のどこでだって台風が起こることと同じで、人間の増悪にさほど質の違いはなく、たまたまそこに憎悪や怒りを増大させる環境が揃ったということに過ぎない。

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僕らは殺人や狂気的な犯罪を憎む。テレビを見ながら悪態をつく。
「こんなの信じられない。ありえない。」と。

でも、僕らが人間である以上、常に脆いし危うい。
いつ自分が向こう側に反転するか、実は分からない。


そんな人間の弱さを知ること。
強い方から世界を見るのではなく、弱い方からも世界を見る。

自分が強い時は、優しくあればいい。仏教ではそれを慈悲と言った。


自分が脆くなく強靭なとき、弱くなく強いとき、それは自分の成長だと思うより、そうたらしめている周囲を取り囲む環境自体に感謝しないといけない。自分を形成している周囲の人たちに感謝しなくてはいけない。
なぜなら、周囲によって自分は結果的に形成されたのだから。


自分の感情が、理性でコントロールできない危ういものだと認識しておかないといけない。
そんな弱さから全てを始めないと、強い側の論理で弱さを表面的に塗り固めて見えなくするだけだと思う。
それを、仏教では無明とも言う。





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【本文P165】
水の流れ、大気の流れ、太陽、そして大地、私という命。
これらは所有できないもの。所有できないものの存在について思い、考えるとき、私の中の知覚にある変化が起こるときがあるんです。
・・・・・・・・
この知覚の変容がときどき起こるわけです。
・・・・・・・・
たぶん、統合失調症の人が「世界が無機質」っていう知覚変容を起こすけれど、その反対方向への知覚変容なのだと思う。
変容の質は同じ。ベクトルが違う。

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僕らは何かを所有したと思うが、実はそれはほとんど錯覚でしかないことが多い。
なぜなら、僕ら人間はいづれ死ぬから。

土地、お金、名誉、地位・・・・所有したと思うのは、ほんのいっときでしかない。


生きていると過去に生きた死者の存在を忘れて傲慢になる。
でも、その死者はかつて生きていたし、その時には自分は存在すらしなかった。
ただ、今、自分たちは奇跡的に存在している。


死者を思うこと、自分がいま奇跡的に存在していること。
そのことを丁寧に見つめると、「何かを所有した」とは錯覚や傲慢に過ぎないと思い知る。

そういう風に自分の知覚が変容すると、世界の在りかたが違って見え始める。



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【本文P167】
シャーマニズムというのは、とても怪しげに響く言葉ですが、私がこれまで体験した沖縄、バリ、アイヌ、アルタイ、メキシコのシャーマンのセレモニーはほとんどが治療と鎮魂の目的であり、祈りを通して人間の凝り固まった認識をほどく役割をしています。
「世界とは決まった秩序のもとに限定されているものではなく、ただ、あなたの考えが世界を固定しているだけなのだ」ということをさまざまな体験をもとにきづかさせてくれる存在でした。

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認識や主観と世界のありように関しては、今自分が深めているテーマでもある。

自分の目、耳、鼻、舌、肌・・・などの五感を総動員させて世界を認識しているが、僕らの認知能力は元々有限であり限界がある。

視力があっても可視光の範囲しか見えていない。
聴力があっても可聴域の範囲しか聞こえない。

そこからはみ出るものは、認識できないから普段は「ない」ような気がしているけど、ほんとうはそこに「ある」。
見えないもの、聞こえないもの、匂わないもの、味がしないもの、触感がないもの・・・・そういうものを僕らは認識できないので、そこには「ない」と脳は直結して誤解しやすいだけだ。

でも、動物には、魚には、昆虫には、微生物には、植物には「ある」場合がある。


そういう意味で、自分の能力の限界や有限性を知らないといけない。


そこからが、僕らにとっての「認識される世界」が初めて始まるんだと思います。


・・・・・・・・・・
色々想像力を喚起させられたんで、長々書いちゃったなー。
興味持ったら是非とも読んでみてください。


P.S.
ちなみに、「生きなおすのにもってこいの日」田口ランディ(バジリコ)のタイトルは、「今日は死ぬのにもってこいの日」ナンシーウッド(著), Frank Howell(原著)(めるくまーる)に由来しているんじゃないかと思います。




この本は、ネイティブインディアンのプエブロ族たちの、生き方・哲学・ものの見方を詩と散文で紹介している本。
この本にも載っている有名な文章を紹介します。

生きると死ぬは表裏一体。表と裏ですからね。


『今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。 』


2 コメント

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豊かな大地と美しい大樹。 (la strada)
2009-09-14 20:43:53
「空想と妄想」「孤独と孤立」
この似て非なる二つの要素と二つのテーマ。
興味深いですね。「空想と孤独」が、「妄想と孤立」が結びつくのも面白い。


「開く閉じる」というのは、いなばさんが提供してくれた大きな深いテーマでよく考えていますが、やはり、閉じっぱなしでも、開きぱなしでもだめで、それを繰り返し、何層にもなっていることが、大切ですね。どんな分野でも魅力的な人というのは、その層の厚さを感じるし、演奏でも、小説でも、絵でも、ダンスでも、そこには、その作り手の深さ厚みというものがどうしても透けて見えてきてしまうもので、それがまた面白いし、歳を重ねていくことの醍醐味であるとも感じます。 
山登りや読書と同じように、考えてみると、楽器の練習というのもひたすら「孤独」ですね。
誰も代わりに登ってくれない、読んでくれないのと同じで、誰も自分のために練習してくれない。自分で自分の穴を掘るしかない。穴が深くなればなるほど怖いけれども、でもやはりそれは非常に豊かな営みで、やめられない。何よりも穴掘り作業には執念と情熱が必要ですね~。


池田晶子さんの「14歳からの哲学」を思いだしました。

「孤独というのはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を、愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて、心ゆくまで考えることができるからだ。考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というのは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。」

「そんなふうに自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発し合うことで、いっそう考えを深めてゆくことができるんだ。むろん全然語り合わなくたってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。」

これを読んだ時、みなさんのことが頭に浮かびました。同じものを見ている。向き合って閉じて甘えてしまう関係性ではなく、同じ方向を見て掘り進んでいる「信頼感」。確かに孤独だけれども、本当に豊かな孤独であり、信頼ですね。


「うっかり自殺。」
繋がりやすいからこそ、孤立しやすい時代。
いろいろと考えさせられます。
この前、公園を散歩していて、大きく聳える樹を見て、ああなんて美しいのだろうと感じました。自然というのは、無防備で、常に開かれている。風雨をしのぐためにと、屋根の下で育つ木は一本もない。生きる事を自らやめる木も一本もない。根が腐ったりして病で死ぬ事があっても、自然界には、自殺はないのだなぁと、当たり前のことに、やけに感動してしまいました。
それは、無条件に全てを「受容」している姿であり、自分で生き、他に生かされているという、全てが融け合っている形であり世界なんだなと。

今の世の中は、折角芽を出して立派な木になろうとしていても、水をやりすぎたり、屋根でおおったりしてるうちに、幹も根も細くなって、枝ばかりがどんどん伸びて(頭でっかち)、バランスが悪くなって、ぽきっといつの間にか折れてしまう木が沢山あるのだろうなと感じます。何よりも、母なる大地がやせ細ってきていいる気がします。若い芽が思う存分下に下に太い根を伸ばせるような、肥沃な大地を耕せていかねばですね。木は葉を作り、大地に返り、養分を蓄える。その大地(祖先)の上で私たちは生きているのだし、私たちもいつかその大地になるのだと改めて考えます。沢山の生き物が宿る美しい大木が未来に沢山育ってほしい、と願います。

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自然との接し方 (いなば)
2009-09-16 10:05:09
>>>>>>>>>>>la strada
「空想と孤独」の連結、「妄想と孤立」の連結は面白いですよね。

「開く閉じる」も、既にそう意識しているだけで開いているんですよね。
「否定的な考え」というものがありますが、生きている、死んでいるという観点から考えると、生きているというそれ自体が前向きでPositiveなことなんだと思うのと同じを感じます。

生きていること自体が既に世界に開いた状態なんだと思うんですよね。
でも、人体というひとつのパーツで閉じている。
その次に精神という状態で閉じるか開くか。

人体自体が口と肛門で世界に対して開いて穴で貫通していて、耳とか鼻とか汗腺とかでも無数に開いている。
人体の細胞自体は細胞という単位で閉じているけれど、イオンチャネルという通路で、電気勾配などを感知して開いたり閉じたりしている。


生命体自体が、構造的に開いたり閉じたりするんですよねー。
僕らもクジラとかに食べられた場合はクジラの中で閉じられるわけで、家に住んでいること自体、家で構造的に閉じられるわけで。

ランディさんがブログで書いた『圧倒的な日常が世界を覆っている。このやわらかな被膜が私たちを守っている。』っていうのも、なんとなく実感としてわかりますよね。そんな薄くて目に見えづらい皮膜で閉じられて守られている気は時々しますし。


楽器の練習も「孤独」ですねー。山登りや読書も同じだし、勉強もそうだし。
そういう結果として自分と向き合わざるを得ない仕掛けを日常の中に作るってのは大事な気がします。
そんな孤独を知っている人同士が向き合うからこそ、深い部分での非言語的交流ができるんでしょう。
言語的な交流は、それ自体に有限性がありますしね。




ほんと、自然って生々しいですよね。植物とかも親近感わきます。
これも、日本で生まれ育ったから無意識的にこういう感情が芽生え始めるのかもしれません。
砂漠で育ったら、自然や植物への考えはかなり変わっていると思いますしね。

植物とかも自殺はないですよね。天寿をまっとする感じですよね。
天寿前に殺しちゃう存在としては人間でしょうか。


自然を育てるときって、僕らが自意識過剰にグイグイ引っ張って伸ばすわけではないんですよね。
勝手に伸びていくのを見守りつつ、時に軽く手を添えるだけ。そんなイメージが近いんだと思いますね。
周りで見守るっていう視線や眼差しそのものが、その周囲を形づくって縁どっていくものなのだと思います。
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