■
毎日データ解析をしている。論文を書いている。硬い学術文書を書き続ける人生は自分には向かないことを思い知る日々。書くこと自体は好きなんですが。
■
ムツゴロウさんのエピソードを聞いてから、ムツゴロウさんが頭から離れない。
人間の能力とは果てしないものだ。
○ムツゴロウ(畑正憲) あまりの過激に収録がNGとなった伝説のインタビュー(結構長いです)
○ムツゴロウさんのスゴイ伝説 <動物王国>
■
神秘家でもあるゲリーボーネルさんと会って話した。心理学者。哲学博士。催眠療法家。芸術家。実業家。音楽家。多面的な顔を持つお方。
すごいエネルギーだった。ユーモアとウィットと叡智に富む。
人と会うのはいい経験だ。言葉に表せないものが多い。こういう積み重ねが、人生の大きな財産になる。素晴らしい出会いに感謝。
たしか、ゲリーボーネルさんの著作で
「人間は笑い出す一瞬前(オチを聞いて笑い始める一瞬前)、悟りの状態と同じになっている」
と書いていたような。よしもとばななさんも、そのことを何かで記載していたような覚えが(うろ覚え)。
自分も、笑いと悟りとは、近親関係にあると思う。だからユーモアや笑いは大事だ。
笑う門には福来る、というのは本当の話だ。
■
みうらじゅんさんの「正しい保健体育II結婚編 (よりみちパン! セ)」(2013/9/15)を読む。
あまりにもシュールで大笑い。みうらさんのセンスはほんとすごい。
「正しい保健体育 (よりみちパン!セ)」(←むちゃんこ面白い)に続く続編。
この本は下品と真理と笑いとサブカルチャーとカルチャーと、、、・・・色んなものがごった煮で詰め込まれていると思う。
みうらじゅんさんは偉大だなぁ。
いろんな面白い人が、色んな自由な人が生きているということは、なんとも勇気づけられることだと思う。
■
銀座で本物の宝石を見た。やはり本物が放つ力は次元が違う。
クリスタルのようなものの1億分の1くらいの量だけが宝石になるらしい。
つまり、その1億分の1以外の9999万9999くらいの部分が、パワーストーンとして石屋さんに売れれていくとの事。
宝石はお金持ちの取引として使われているイメージがあったけれど、それは自分の偏見だった。一面しか見てなかった。
だから、宝石そのものをマジマジと真面目に観察したことがなかった。そんな自分の偏見に反省。
宝石は、本当は宇宙からの贈り物だと思う。地球の人々はみんなで大切にShareする必要がある。
本当の意味で正しく使われる時代がそろそろ来るんじゃないかな。
金やダイヤモンドも色んな先端科学の部品に使われているようですし。
今一度、いろんなものを全員の視点に立って考え直す時代に来ているのだと思う。
食の問題もそうだし・・。医療や科学の問題も同じく。
■
<笑っていいとも>が来年で終わるらしい。
タモリさんが芸能界に果たした貢献は大きい。
タモリさんのすごさが分かるときが、子供から大人になった証拠だと思う。
■
どんどん関係ない話ばかりを。
「自己言及のパラドックス」という概念が興味深い。
たとえば。
「すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタ人が言った。」とかいう話。
もしこの話が本当なら、クレタ島の人は全員が嘘つきではないことになる。
もしこの話がウソなら、クレタ島の人は全員が嘘つきではないことになる。
つまり、「自分」を「自分で」記述すると、そこに自己矛盾が生ずるという事。
このことは、「自分」というものが潜む謎と関係していると思う。
「自分」をどういう範囲で定義するかで、色んな物事は変わりうる。
「自分と関係ないもの」とすればどんなものにでも冷酷になり、
「自分と同じもの」とすればどんなものにでも愛情深く接することができるようになる。
このことと、「自己愛」や「自己否定」の構造も関係しているし。
色んな問題は、「自分」が「自分」を観察し、「自分」を表現する、という複雑な「自分」ループによる自己言及性のパラドックスが関わっているような。
こういう答えのない哲学的な問いを、仕事の合間にふと考えてしまうものだから、仕事が進まない。笑
ただ、Wikipediaにこういう記載もあった。
*******************
様々な解決案
言語階層
「文章に言及する文章」を矛盾無く取り扱うには「この文は間違っている」という文章をうまく排除する必要がある。
「この文は間違っている」という文章を回避する方法として、言語に階層をいれる、というものがある。
すなわち、言語に「レベル0の文章」、「レベル1の文章」…を以下のように作る。
レベル0の文章:(自己言及や他己言及を含まない)「普通の」文章。
レベル1の文章:レベル0の文章について言及している文章。
レベル2の文章:レベル1の文章について言及している文章。
…
レベルi+1の文章:レベルiの文章について言及している文章。
…
そしてこのようにレベルづけできる文章だけを(矛盾が生じる危険がないので)取り扱う事にし、その他の文章を扱うのを諦める。
したがって、
レベル0の文章の中には偽のものがある。
レベル0の文章に言及している文書はレベル1である。
レベル0の文章は、全て10文字以下である。
(いずれもレベル1)
のようなものは扱う事ができる(ただし、扱う事ができるからといって、真であるとは限らない。上記の例で実際 3 番目の例は扱う事ができるが偽である)。
一方「この文は間違っている」は排除される。実際この方法だと「この文は間違っている」という文章にはレベルづけできない。A = 「この文は間違っている」 として、仮に A のレベルが i であるとすると、 A は「この文(←レベル i )は間違っている」とレベル i の文章に言及した文章でもあるので、 A のレベルは i+1 であってレベル i ではないことになり、矛盾する。
*******************
正直、よくわからないところも多い。
ただ。
「わたし」の謎を解明するためには、「わたし」を階層構造としてセッティングすればいいのではないかと思う。
つまり、
レベル0の「わたし」
レベル1の「わたし」
レベル2の「わたし」
レベル3の「わたし」・・・・・・・・・・・・・
という風な階層構造、入れ子パターンとして「わたし」をとらえれば、「わたし」の自己言及のパラドックスは起きない。
だって、それぞれの「わたし」はレベル(次元)が違うから。
そういえば。
この辺りは「セカンド自分」「サード自分」・・・として、榎本俊二の「ムーたち」という超絶面白い漫画でも表現されていた。(「ムー大陸」とか学研雑誌「ムー」とは関係ないです・・。美内すずえさんの「アマテラス」という最高に弾けた漫画にも頻繁に「ムー」が出てきたけど・・・。)
→○「ムーたち」榎本俊二(2009-10-21)
確かに。
人間の成長って、「こころ」の成長って、イメージとしてもこういうものじゃないかと思う。
階層構造として「わたし」がラセン回転しながら次元が上がっていく感じ。数学で言えばリーマン面か?
f(z)=√z のリーマン面(Wikipediaより)
上へ上へ続くらせん階段を、ひとつの平面にビチャットつぶしてみると、それはすべて同一平面上に見える。
ただ、本当は「わたし」の構造を遠目で見てみると、だれもが同じ平面にあるわけではない。
それは自分がそう見てしまっているだけ。
本当は、「わたし」のらせん構造は上へ上へと、他の次元へつながっている。そこは個人差がある。そこに受容能力の違いが生まれる。
そんな階層構造の中に「わたし」は概念化され、パッケージングされていく。
受け入れがたきものを受け入れれるようになったり、葛藤がなくなってしまうことは、
こういう風な「わたし」のらせん階層構造の中で、一つ上の次元から冷静にみることができるようになることを指すんじゃないだろうか。
・・・・・・・・・
このブログも、なんだか関係のない話ばかりがどんどん階層構造でつながっているが、そもそも、人間というのがそういうものだからしょうがない(開き直り)。
毎日データ解析をしている。論文を書いている。硬い学術文書を書き続ける人生は自分には向かないことを思い知る日々。書くこと自体は好きなんですが。
■
ムツゴロウさんのエピソードを聞いてから、ムツゴロウさんが頭から離れない。
人間の能力とは果てしないものだ。
○ムツゴロウ(畑正憲) あまりの過激に収録がNGとなった伝説のインタビュー(結構長いです)
○ムツゴロウさんのスゴイ伝説 <動物王国>
■
神秘家でもあるゲリーボーネルさんと会って話した。心理学者。哲学博士。催眠療法家。芸術家。実業家。音楽家。多面的な顔を持つお方。
すごいエネルギーだった。ユーモアとウィットと叡智に富む。
人と会うのはいい経験だ。言葉に表せないものが多い。こういう積み重ねが、人生の大きな財産になる。素晴らしい出会いに感謝。
たしか、ゲリーボーネルさんの著作で
「人間は笑い出す一瞬前(オチを聞いて笑い始める一瞬前)、悟りの状態と同じになっている」
と書いていたような。よしもとばななさんも、そのことを何かで記載していたような覚えが(うろ覚え)。
自分も、笑いと悟りとは、近親関係にあると思う。だからユーモアや笑いは大事だ。
笑う門には福来る、というのは本当の話だ。
■
みうらじゅんさんの「正しい保健体育II結婚編 (よりみちパン! セ)」(2013/9/15)を読む。
あまりにもシュールで大笑い。みうらさんのセンスはほんとすごい。
「正しい保健体育 (よりみちパン!セ)」(←むちゃんこ面白い)に続く続編。
この本は下品と真理と笑いとサブカルチャーとカルチャーと、、、・・・色んなものがごった煮で詰め込まれていると思う。
みうらじゅんさんは偉大だなぁ。
いろんな面白い人が、色んな自由な人が生きているということは、なんとも勇気づけられることだと思う。
■
銀座で本物の宝石を見た。やはり本物が放つ力は次元が違う。
クリスタルのようなものの1億分の1くらいの量だけが宝石になるらしい。
つまり、その1億分の1以外の9999万9999くらいの部分が、パワーストーンとして石屋さんに売れれていくとの事。
宝石はお金持ちの取引として使われているイメージがあったけれど、それは自分の偏見だった。一面しか見てなかった。
だから、宝石そのものをマジマジと真面目に観察したことがなかった。そんな自分の偏見に反省。
宝石は、本当は宇宙からの贈り物だと思う。地球の人々はみんなで大切にShareする必要がある。
本当の意味で正しく使われる時代がそろそろ来るんじゃないかな。
金やダイヤモンドも色んな先端科学の部品に使われているようですし。
今一度、いろんなものを全員の視点に立って考え直す時代に来ているのだと思う。
食の問題もそうだし・・。医療や科学の問題も同じく。
■
<笑っていいとも>が来年で終わるらしい。
タモリさんが芸能界に果たした貢献は大きい。
タモリさんのすごさが分かるときが、子供から大人になった証拠だと思う。
■
どんどん関係ない話ばかりを。
「自己言及のパラドックス」という概念が興味深い。
たとえば。
「すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタ人が言った。」とかいう話。
もしこの話が本当なら、クレタ島の人は全員が嘘つきではないことになる。
もしこの話がウソなら、クレタ島の人は全員が嘘つきではないことになる。
つまり、「自分」を「自分で」記述すると、そこに自己矛盾が生ずるという事。
このことは、「自分」というものが潜む謎と関係していると思う。
「自分」をどういう範囲で定義するかで、色んな物事は変わりうる。
「自分と関係ないもの」とすればどんなものにでも冷酷になり、
「自分と同じもの」とすればどんなものにでも愛情深く接することができるようになる。
このことと、「自己愛」や「自己否定」の構造も関係しているし。
色んな問題は、「自分」が「自分」を観察し、「自分」を表現する、という複雑な「自分」ループによる自己言及性のパラドックスが関わっているような。
こういう答えのない哲学的な問いを、仕事の合間にふと考えてしまうものだから、仕事が進まない。笑
ただ、Wikipediaにこういう記載もあった。
*******************
様々な解決案
言語階層
「文章に言及する文章」を矛盾無く取り扱うには「この文は間違っている」という文章をうまく排除する必要がある。
「この文は間違っている」という文章を回避する方法として、言語に階層をいれる、というものがある。
すなわち、言語に「レベル0の文章」、「レベル1の文章」…を以下のように作る。
レベル0の文章:(自己言及や他己言及を含まない)「普通の」文章。
レベル1の文章:レベル0の文章について言及している文章。
レベル2の文章:レベル1の文章について言及している文章。
…
レベルi+1の文章:レベルiの文章について言及している文章。
…
そしてこのようにレベルづけできる文章だけを(矛盾が生じる危険がないので)取り扱う事にし、その他の文章を扱うのを諦める。
したがって、
レベル0の文章の中には偽のものがある。
レベル0の文章に言及している文書はレベル1である。
レベル0の文章は、全て10文字以下である。
(いずれもレベル1)
のようなものは扱う事ができる(ただし、扱う事ができるからといって、真であるとは限らない。上記の例で実際 3 番目の例は扱う事ができるが偽である)。
一方「この文は間違っている」は排除される。実際この方法だと「この文は間違っている」という文章にはレベルづけできない。A = 「この文は間違っている」 として、仮に A のレベルが i であるとすると、 A は「この文(←レベル i )は間違っている」とレベル i の文章に言及した文章でもあるので、 A のレベルは i+1 であってレベル i ではないことになり、矛盾する。
*******************
正直、よくわからないところも多い。
ただ。
「わたし」の謎を解明するためには、「わたし」を階層構造としてセッティングすればいいのではないかと思う。
つまり、
レベル0の「わたし」
レベル1の「わたし」
レベル2の「わたし」
レベル3の「わたし」・・・・・・・・・・・・・
という風な階層構造、入れ子パターンとして「わたし」をとらえれば、「わたし」の自己言及のパラドックスは起きない。
だって、それぞれの「わたし」はレベル(次元)が違うから。
そういえば。
この辺りは「セカンド自分」「サード自分」・・・として、榎本俊二の「ムーたち」という超絶面白い漫画でも表現されていた。(「ムー大陸」とか学研雑誌「ムー」とは関係ないです・・。美内すずえさんの「アマテラス」という最高に弾けた漫画にも頻繁に「ムー」が出てきたけど・・・。)
→○「ムーたち」榎本俊二(2009-10-21)
確かに。
人間の成長って、「こころ」の成長って、イメージとしてもこういうものじゃないかと思う。
階層構造として「わたし」がラセン回転しながら次元が上がっていく感じ。数学で言えばリーマン面か?
f(z)=√z のリーマン面(Wikipediaより)
上へ上へ続くらせん階段を、ひとつの平面にビチャットつぶしてみると、それはすべて同一平面上に見える。
ただ、本当は「わたし」の構造を遠目で見てみると、だれもが同じ平面にあるわけではない。
それは自分がそう見てしまっているだけ。
本当は、「わたし」のらせん構造は上へ上へと、他の次元へつながっている。そこは個人差がある。そこに受容能力の違いが生まれる。
そんな階層構造の中に「わたし」は概念化され、パッケージングされていく。
受け入れがたきものを受け入れれるようになったり、葛藤がなくなってしまうことは、
こういう風な「わたし」のらせん階層構造の中で、一つ上の次元から冷静にみることができるようになることを指すんじゃないだろうか。
・・・・・・・・・
このブログも、なんだか関係のない話ばかりがどんどん階層構造でつながっているが、そもそも、人間というのがそういうものだからしょうがない(開き直り)。
それはモレイと言って、アイヌ語で渦を表すものなのですが、アイヌの人達は水の力や火の力、神の力を紋様にして衣服などに刺繍し、その力で襟元や袖口から魔が侵入するのを防ぐのだといいます。
これは、ランディさんや梅原猛先生がよく語られていますよね(^-^)p
そして、榎本俊二さんが懐かしい……! 榎本さんの不条理漫画をテーマにした舞踏を踊っていました……。もう十年以上前のことですけどね☆
螺旋状に上がるということ、この夏稲葉さんに初めて教えて頂きました。そういう風に理解すると、「なるほど!」と思えることが多いのです。
捨てられない物を捨てるとか、過去を焼き捨てるとか、尊敬できない人を尊敬するとか、エジプトカードは難しいことをよく言ってくるのですが。
そういうのは、実を言うとその人の根っこの気持ちに繋がっていて。本当は捨てたいと思っていたり、焼き捨てたいと思っていたり、心の底の底では尊敬していたりするんですけど、何かが蓋をしていて、うまくできないんですよね。
その蓋を、「敢えて外せ!!」とカードはよく語ります。
「螺旋状に上がれ!」と。
占い師として、よくその「外せ!」と人が言われる現場を目の当たりにしますが、本当のところを突かれると、その方の心にはきちんと響くみたいです。(^-^)p
すいっち☆
美内すずえ先生の「アマテラス」、読んでましたか。さすが!!
まだ未完ですが、是非とも続きを書いてほしいなぁ。
たしか鳴門海峡で渦巻きの渦を見るとこで終わってたような・・・。
美内すずえ先生のガラスの仮面でも出てくる表現ですが、女性が<白目>になる描写がいつもすごいですよねー。笑
「榎本さんの不条理漫画をテーマにした舞踏を踊っていました……。」
って。。なんなんですか!?笑 興味深すぎる。
榎本俊二さんは、吉田戦車の次を担う新世代シュールだと思ってました。
エログロナンセンスのるつぼですが、むーたちはそこを封印してるんですよね。
かなり哲学的な内容だと感じました。
『ファースト自分はいわばダムみたいなもので そこからセカンド自分サード自分へと意識を分配しているんだよ』
っていうのも、実は深いですよね。
まさに今回のエントリーの「わたし(自己)」を考えるうえで非常に重要な観点かと。
螺旋状に上がる話は、「だるまんの陰陽五行」でも出てきますよねー。
五行の相克関係で進化しつつ、一周回って木に戻ると、次の周では愛(火)を受け取る側から、愛(火)を与える側へと立場を変えながら成長していく、とか。
スイッチさんのエジプトカード占いはすごいですよねー。日本でもなかなかやってる人いませんしね。しかも、バシバシと核心ついてたのが、他の人のを見ていてすごく感じました。
自分も、「人間の意識が切り替わる瞬間の表情」というのが好きです。
それは、「気づき」のこともあれば、「恋」のこともあります。ただ、人間は何か意識の壁が壊れるとき、明らかに身体からはなつエネルギーがシフトします。それは日々の医療の臨床のなかで、よく感じることです。 病を作り出すのも、健康や調和を作り出すのも、最初の一歩は人間の意識の壁、であることが多いですね。その壁は高すぎると、そこに壁があることすら気づかない人が多いですが・・・(^^
みうらじゅん大先生の保健体育、2が出てたのね!
1はホント、名著だったー。
教科書に出てくる卵巣の図みたいなのをもって、
女子はあれで宇宙と交信しているのだ!と。
なるほど勉強になる。
宝石の話も納得。
ぼくも貴金属ってだけで偏見持ってたけど、
そういえば、あの美輪明宏大先生も
たくさんつけてるくらいだから悪いわけがない。
…ホント、日々勉強です。
さすがのIsくんも、最近は本の最新情報に遅れてる!?(^^;
みうらじゅん大先生の保健体育2が出てるのですよー。
というか。まさか2巻目が出るとは。。。
以前、何かの機会でこの寄り道パンセシリーズの編集長である清水檀さん(旦那さんは、あの祖父江慎さん!)と雑談する機会があって、「よりみちパン!セ」シリーズを絶賛しつつ、みうらじゅん氏の本をさらに熱く語っていたら、「あの本、実は学校の副読本の教科書としてもつかわれているんですよ」とのこと。
その学校面白いー。みうらじゅんさんの本を学校で勉強するようになったら、この社会はもっと気が抜けていい感じになりそう。
そうそう。宝石ってやっぱ美しいんだよねー。
なんでも偏見持たずに自分の感覚を大事にするのがいいよね。そのためには、つねに自分自身の感覚を研ぎ澄ませないといけない。都会とか文明社会ではなかなか難しいけど、山上ったり自然の中に入ると、自分の中にある原子感覚のようなものが呼び戻されてくるんですよね。雪山上ってた時なんて、数百メートル先に獣がいるだけで、匂い感じたものだし。
人間の体とか心って奥深い。同様に、ホント、日々勉強です。