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日常

「「法句経」一日一悟」

2011-12-21 00:01:03 | 
アルボムッレ・スマナサーラ長老の「「法句経」(ダンマパダ)一日一悟」佼成出版社 (2005/11) を読みました。

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<内容(「BOOK」データベースより)>
スマナサーラ長老が説き明かす“強く、賢く生きるための仏教”。
<内容(「MARC」データベースより)>
「ダンマパダ(法句経)」に説かれたブッダの智慧を、4週間で学べるように全4章28編に構成して紹介。スリランカ仏教界長老が説き明かす、強く、賢く生きるための仏教。
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12月4日の「日日是好日」(2011-12-04)でも書きましたが、スリランカ仏教のスマナサーラさんの本にはまっています。


ブッダ。お釈迦さま。シッダールタ。仏。釈迦牟尼。・・・
この方は、人類の歴史上でもっとも頭がよく、その上でもっとも人格者だったのではないか。と、改めて思います。


いま現在、地球上で60億人くらいの人間が生きてます。
この中でもっとも頭がよく人格的にも完成された人を探してみれば、きっと100人くらいは絞れる。
そういう100人を数千年前から延々とセレクションし続けていくと、人類の歴史の中でトップ100のような人がきっと選ばれていく。
満場一致のそんな100人を見てみたいものです。後光がさしてそう。まぶしくて直視できないかもしれない。

その中で、どんなジャンルの人が選んでもブッダ(お釈迦様)は相当の上位に食い込みそうです。


それくらい、もうとんでもない頭の良さと人格のすごさを感じてしまいます。
ブッダ初期の本を読むと、宗教の香りは一切しません。
道徳話であり、脳科学であり、心理学であり、哲学であり、言語論であり、人生訓であり・・。
いろんなジャンルでハイレベルすぎて改めてすごいのです。
2500年かけて、ブッダが生きた時代より文明や科学は進歩したかもしれませんが、人間としては、心の問題は全然進歩してない気がしますね。そろそろ盛り立てていかないと、ブッダに笑われちゃいそうです。



・・・・・・・・・・

そんな感じで、仕事の合間のティーブレイクに、ブッダ関連の本をコツコツと読んでます。
よく考えたら、個人的にブッダにかかわるものを読み始めた入口は、手塚治虫先生にはじまることに気付きました。
自分にとってやはり手塚先生は偉大。


ブッダの生の声に近くて初期の経典が「法句経(ダンマパダ)」と言われます。
あらゆる言語に翻訳されているらしい。
本屋に行くとどんどん新しい本が積まれていますが、2500年以上前を思い出しながら超ロングセラーを読むのは時にはいいものです。それは聖書も似たようなものですね。


とにかく。
「法句経(ダンマパダ)」に自分が補足する事なんて何もないので、自分が後で見返すたびにブログにメモします。
ブログにメモしておくと意外にいい。自分が読み返したいときに読み返せるし。便利な時代です。
(見返してみると、岩波文庫版もいいですねぇ。→『ブッダの真理のことば、感興のことば』(2011-02-02)



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アルボムッレ・スマナサーラ「「法句経」(ダンマパダ)一日一悟」佼成出版社 (2005/11)
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悪を犯すときは、無知な人はそれが悪業であると気付かない。
しかし自らの行為によって、智慧のない人は火傷したように苦しみ続ける。
(一三六)
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下劣な生き方をしてはならない。
怠け者になってはならない。
邪見に近付いてはならない。
俗世間の価値を肥やすものになってはならない。
(一六七)
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工人は水を灌漑する。
矢を作る職人は矢を矯(た)める。
大工は木材を矯める。
理性ある人は自己を整える。
(一四五)
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もし自分を愛しい者と知るならば、自分をよく守るように。
智慧のある人は、人生の三期のうち、一期だけでも自己を修めるものである。
(一五七)
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アトゥラよ、これは昔からのことだ。今日だけのことではない。
人は黙っているものを非難し、多くを語るものを非難する。節度を持って語るものさえ非難する。
この世において、非難されずにいた者はどこにもいない。
(二二七)
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ただ一つの真理を逸脱し、うそをつき、死後の幸福さえも捨てている者にには、犯せない罪はない。
以前は怠る者であっても、それに気付き怠らない人間になるならば、その人はあたかも雲を離れた月のように世を照らす。
(一七二)
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自分の道を外れることに親しみ、自分の道を歩むことに親しまない。
人生の目的を捨てて楽しみにしがみつく人は、自分の道を歩む人をうらやむようになる。
(二〇九)
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真理を語ること。
怒らないこと。
頼まれたら少しでも助けてあげること。
この三つを実践する人は、神々の世界に行くだろう。
(二二四)
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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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怒りと錨。 (さ。)
2011-12-24 02:16:03
この方、名前ですでに、すまないよーって感じで、怒らなそうだよね。笑。どんな長老さまなのか、妄想が膨らみます。面白そうだから、今度見つけたら買ってみます。

座談会から、怒りのことをずっと考えているけれど、まだまだ分かりません。Y君が、怒り(anger)と、錨(anchor)のことを呟いていて、確かに似ているし、怒りが、自分の錨となって、無意識の海に沈んでいるような気がします。
誰かに対する怒りは、とりもなおさず、自分へのnegativeな感情の反映/反射であるというのは、そうか、なるほどーって思います。個人的な感情というか。ただ、「怒るな」ということに関しては、まだ腑に落ちないところがあって。行雲流水のごとく生きられたら、と思うけれど、その一方で、レジスタンスというのも生きる上では必要な気もして。それこそ「みずからとおのずから」のバランスというか。



「自由とは空に浮かぶ凧のようなものである」という、どなたかの名言は、レッスンでもよく使っていて、つまり、演奏する時も、凧糸を切らずに、音(凧)を風にうまく乗せる必要があって、凧糸が切れてしまったら、凧は空に飲み込まれてしまう。

「怒るな」ということは、錨が無くなって、大海に紛れ込んでしまうことでもあり、それに似た怖さ?を感じているのかもしれないなー。(と、書きながら、思ったり。)


「怒りの下には深いかなしみがある」というRさんのことばは、ずっと残っています。そこを自分なりに掘り下げているけれど、なかなかどうして。。奥が深いです。


かなしみと、やさしさは、同じ深さにあるような気がします。風の谷のナウシカの「やさしい気持ちになる」という台詞を思いだします。ナウシカは、すごい作品だなあ。。。あらためて。


ところで、細野晴臣さんのこのコラムオモシロイ。「基本受け身」というのは、いいスタンスな気がしてきました。基本能動態ではなく、基本受動態。おーこれでいこうかな。…と、人のブログのコメント欄に、書き込みしながら、思考してすみません。笑。また、みなさんとじっくり話したいです。


http://webheibon.jp/blog/chagama/2008/02/post-4.html

「基本的に細野さん受け身ですよね。

ハリー:100%受け身だね。水に支配されているようなところがあるからね。水でしかないんだよ、自分が。そう思い込んだことが一時期あった。水ってのは自分の意志で流れているわけじゃないから。

そうさん:高いところから、低いところへ。

ハリー:そうそう。

そうさん:蛇行しつつ。

ハリー:そうそう。

そうさん:海に出ちゃうじゃないですか。

ハリー:海に出ちゃうんだよ。」



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怒りについて (いなば)
2011-12-25 17:50:50
>>>さ。さん
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誰かに対する怒りは、とりもなおさず、自分へのnegativeな感情の反映/反射であるというのは、そうか、なるほどーって思います。個人的な感情というか。ただ、「怒るな」ということに関しては、まだ腑に落ちないところがあって。行雲流水のごとく生きられたら、と思うけれど、その一方で、レジスタンスというのも生きる上では必要な気もして。それこそ「みずからとおのずから」のバランスというか。
========


怒りという感情を抑圧して分離すると、それは単に無意識の影に逃げ込むだけなんだと思いますね。
それはいつまでも統合されてなくて。
人間の心のそういうメカニズム(自分が受け入れずに抑圧したものは自分の影としてふくらんでいく。これは河合先生の影の現象学でもそうですね)を理解した上で、その怒りのエネルギーというか、動きを、冷静に観察することからはじめる、っていうことだと思うんだよね。

それは、「自分の中に怒りと言う感情が起きている」ということを観察する、もう一つの目(それは自己でもSelfでもいいけど)を持つ、ということかなと思う。
怒りのエネルギーはいろんなぐちゃぐちゃした混沌を濁流のように飲み込みながら攻撃的なエネルギーへと増幅していく。その濁流にEgoがたいてい飲み込まれるけれど、それを冷静に自己Selfで見つめて、その根源が自分のどことつながっているのかを観察する、というか。

東洋の智慧として、怒りに怒りや怨みで反応しても、その悪の連鎖はいつまでも終わらない。だから、あなたの場所でその連鎖を止めなさい、というのがあるんだと思うんだよね。
それは、ダライラマとか、チベットを中国に侵略されても「愛すべき私の敵よ」と呼びかけ、自分を殺そうとするものにも深い愛情を与える、ということと同じなんだと思う。
たしか、南アフリカのマンデラも、アパルトヘイト反対で監獄に数年いれられたとき、怒りではなくそういう愛情で監獄の監視員と接してたらしいし、監獄から出て最初の演説の時、その監獄の監視員が一番前にいて聞いていた。という話も聞いたことあります。


だから、怒るな、というのは抑圧するという意味ではなくて、怒りという形で表出させるな、それはさらに周りに増幅させながら拡散していく(ウイルスのように)という智慧なんじゃないか、と自分は思っています。


そこで、
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「怒りの下には深いかなしみがある」
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という言葉にもつながると思うんだよね。かなしみは、仏教で慈悲という言葉にまで高められているし、そういう人間の性とか、業とか、そういうかなしみとして、怒りという不純物交じりの感情を深めていくというか。

自分も仕事でたくさんの主義主張や立場の違う人たちと接していて、いろんなタイプの「怒り」を投げつけられることが多いし、自分も「怒り」として表出させたくなる誘惑もあるけれど、そこは一回踏みとどまるようにしています。時間を置いて発酵させて変容させるというか。反射的にしてしまうあらゆる行動は、ある意味で自分の思考パターンの習慣化だし、その習慣化されたものがほんとうにいいことなのか、改めて考えるようにしています。それが美輪さんのいう「頭はつめたく、心はあたたかく」の意味だと思うし。その逆が一番いけない、と美輪さんはおっしゃる。


その場全体において、最善の行動をとろうと考えるとき、果たして「怒り」という表出がいいのかどうか、一度自分で吟味してみる。そうすると、自分のEgoの自己満足としては事足りるけれど(そのことを正当化する理由なんて無数に見つけだすことができるから)、場全体としていい結果を生むわけではないという場合が多い気がします。


細野さんの「基本受け身」、いいですね。
おそらく、それは包含するということで包み込むということで、受け入れるということだと思う。
怒りのような過剰なエネルギーも、大きく包み込むようなものとしてコーティングして表出させることができればいいんだと思うなぁ。それが深い愛情とか深い慈悲とかにつながるのかもしれないし。



このあたりは、それぞれが自分の人生の中で一生かけて取り組んでいくべき重要な課題のようにも思いますね。
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