以前、『他者との出会い(2009-04-04)』として半年前に書いたことですが、先日話してみたら、みんなが納得してくれて嬉しかった。
だから、もう一度「出会い」の偶然と必然、その二重性や奇跡に関して書きたい。
■地図を上から眺める
Googleの地図を見ていると思うことがある。
日本地図が見える遠景から、東京都内にどんどん倍率を拡大していくと、日本地図の大きい縮尺では見えなかった細かい道路がどんどん見えてくる。
さらに拡大していくと、そのとき見えていた道路はさらに拡大されて視野からはみ出る。その代わりに、何も見えなかったはずのところに新しい道が見えてくる。
そして、そんな道が他の道同士と複雑に交錯して、地球を埋め尽くしている。
■100マスの中の1マス
地図を、方眼紙のように100マスの視野で分割されて見えているとする。
視野を拡大していくということは、その中の1マスだけを見ることである。
1マスに倍率を上げただけで、100マスの視野では見えていなかった道が無限に近く入り組んで見えてくる。
単に見えていなかっただけで、1マスの中にそんな多様なものを含んでいたことに気付く。
1マスに視野を拡大していくとき、その代償に他の99マスを視野からこぼれ落とすことになる。
東京文京区の地図を見ている時、南アフリカや地中海や・・・別のマスに思いを馳せることはない。
そうして拡大されなかった99マスをこぼれ落としながら、その1マスを見ている。
でも、その1マスは100マスの中の1マスに過ぎなかったものでもあるから、その1マスの中にもこぼれ落とした99マスの情報が含まれているとも言える。なぜなら、こぼれ落とした99マスが存在しなければ、拡大された1マス自体が存在しないわけだから。
そうして、その拡大された1マスがまた1つの全体地図となる。100マスの画面となる。
地図は、そういう連続した入れ子構造を常に含んでいる。
そんな地図を、僕らは何気なく見ている。
■道は全体としてつながる
地図の中にある道、どんな任意の一点を選んでも、世界のすべての場所につながっている。
どこからスタートしても全てとつながっているし、全てに通じている。
海では、船を通して異国と通じる。
僕らが生きていくとき、こうした「地図」を感じながら日々を生きることは少ない。
概して、自分目線の、狭く瑣末な事柄に忙殺された日々を送る。
全ての事柄は自分の目線から見たものであって、自分の頭で理解できる程度のものを認識しているし、自分を入口にして全ての物事を感じている。
善と悪、光と影・・・色んな2項対立も、自分に都合良く解釈しているのが常である。
人との出会いの中で、振り返ってみると「ああ、あれは素晴らしい出会いだった」と思えるものが確実にある。
そして、そんな稀有な出会いを、僕らは「偶然」として簡単に処理しがちである。
そんなとき、ふと地図を見るときの視点に戻ってみる。
出会いを、道と道が交差したものと考えて、冷静に地図を想像しながら思いを馳せてみる。
■必然としての出会い
道と道が交差した場所から見ると、それぞれの道は、果てしなく遠いところから交差する一点へ向けて、迷わずに正確無比な精度で一気に伸びてきていることが分かる。
それは必然としか思えない精度である。
その交差する点に伸びてきた二つの道は、それぞれがどこが始まりで、どこが終わりかなんてわからない。
なぜなら、地図で見ると全ての道は全てに通じているから。
だからこそ、どこが始まりで、どこが終わりかなんて、どこにも書いていないし、それを決めるのは自分の都合に過ぎない。
自分が生まれた場所を始まりとしてもいいし、自分の両親、祖先・・どんどん遡っていった場所をはじまりにしてもいい。
終わりも、始まりと同じであって、そんなところはあると言えばあるし、ないと言えばない。
道路を注意して歩いていると、小さい道、大きい道・・・色んな道が交差してくるのが分かる。
自分の視点から出会いを見ると、その交わってきた道は単なる偶然に思えるかもしれない。
でも、交差した地点、地図から見た視点でそれぞれの道を逆向きに見ると、その交差は必然としか言えない精度でつながっているのだ。
自分の道から見ると、出会いは偶然。
出会いそのものから見ると、道との出会いは必然。
■「必然」の理由
なぜ「必然」になるかを考えてみる。
それは、その交差点(出会い)自体が交差する二つの道を前提にして存在しているから。
存在の前提であり根拠である場合、「必然」と感じる。「偶然」という見方はなかなか生まれてこない。
自分の手があり、足があり、心臓があり、血管があり、神経があり、脳があり、・・・・というように、自分の存在の前提の場合は「必然」としか感じず、欠落して初めて「偶然性」を意識する。
この世の「必然性」や「おのずから」や「運命(宿命)」を感じながら生きるということは、自分以外の他者や自分以外の全てのものを、自分という存在の前提・根拠として内部に組み込んでしまうことにつながるのだ。
■自分と自分以外の関係
自分が孤立した存在と見るのは、出会いを「偶然」ととらえていく見方と同じである。そこには自分の中に他者が組み込まれていない。
自分が他者の縁で存在していると見るのは、出会いを「必然」ととらえていく見方と同じである。そこには自分の存在の根拠として、他者を始めとした自分以外の全てのものが組み込まれている。
自分を考える時、
「自分=自分」と考えるか。
「自分=全て―自分以外の全て」と考えるか。
前者は足し算の思考。自分に色々なものを付け加えていくことで「個性」を求める。
後者は引き算の思考。あらゆるものの引き算の結果を、「自分」として受け入れ、引き受ける。
前者で考えると、出会いは、独立した「自分」同士が起こす偶然の産物。
後者で考えると、出会いは、起こるべくして起きた必然の産物。
・・・・・・
僕らは100マスの99マスをこぼれ落とす入れ子構造に生きていて、「偶然」と「必然」の二重性を持つ出会いを重ねながら日々生きている。
「偶然」な思いに引きずられすぎないよう、そして「必然」な思いに引きずられすぎないよう。
その間で引き裂かれ、分裂しないようにしながら、その「偶然」と「必然」を同時に感じたい。
それを、一般的には「中庸」とか「あわい」と言うかもしれない。
そんな状態で長続きすることを「奇跡」と言うかもしれない。
そんな「奇跡」は、「感謝」としか、「ありがとう」としか外へ向けては表現できないかもしれない。
そして、そのことには誰もがいつか気付くのだと思う。
きっと、生まれてからずっとそのことを感じ続けている人もいるし、死ぬ直前に気付く人もいる。死んだ後に気付く人もいるかもしれない。
それは、単に時期が早いか遅いかの違いでしかないのだと思うのです。
だから、もう一度「出会い」の偶然と必然、その二重性や奇跡に関して書きたい。
■地図を上から眺める
Googleの地図を見ていると思うことがある。
日本地図が見える遠景から、東京都内にどんどん倍率を拡大していくと、日本地図の大きい縮尺では見えなかった細かい道路がどんどん見えてくる。
さらに拡大していくと、そのとき見えていた道路はさらに拡大されて視野からはみ出る。その代わりに、何も見えなかったはずのところに新しい道が見えてくる。
そして、そんな道が他の道同士と複雑に交錯して、地球を埋め尽くしている。
■100マスの中の1マス
地図を、方眼紙のように100マスの視野で分割されて見えているとする。
視野を拡大していくということは、その中の1マスだけを見ることである。
1マスに倍率を上げただけで、100マスの視野では見えていなかった道が無限に近く入り組んで見えてくる。
単に見えていなかっただけで、1マスの中にそんな多様なものを含んでいたことに気付く。
1マスに視野を拡大していくとき、その代償に他の99マスを視野からこぼれ落とすことになる。
東京文京区の地図を見ている時、南アフリカや地中海や・・・別のマスに思いを馳せることはない。
そうして拡大されなかった99マスをこぼれ落としながら、その1マスを見ている。
でも、その1マスは100マスの中の1マスに過ぎなかったものでもあるから、その1マスの中にもこぼれ落とした99マスの情報が含まれているとも言える。なぜなら、こぼれ落とした99マスが存在しなければ、拡大された1マス自体が存在しないわけだから。
そうして、その拡大された1マスがまた1つの全体地図となる。100マスの画面となる。
地図は、そういう連続した入れ子構造を常に含んでいる。
そんな地図を、僕らは何気なく見ている。
■道は全体としてつながる
地図の中にある道、どんな任意の一点を選んでも、世界のすべての場所につながっている。
どこからスタートしても全てとつながっているし、全てに通じている。
海では、船を通して異国と通じる。
僕らが生きていくとき、こうした「地図」を感じながら日々を生きることは少ない。
概して、自分目線の、狭く瑣末な事柄に忙殺された日々を送る。
全ての事柄は自分の目線から見たものであって、自分の頭で理解できる程度のものを認識しているし、自分を入口にして全ての物事を感じている。
善と悪、光と影・・・色んな2項対立も、自分に都合良く解釈しているのが常である。
人との出会いの中で、振り返ってみると「ああ、あれは素晴らしい出会いだった」と思えるものが確実にある。
そして、そんな稀有な出会いを、僕らは「偶然」として簡単に処理しがちである。
そんなとき、ふと地図を見るときの視点に戻ってみる。
出会いを、道と道が交差したものと考えて、冷静に地図を想像しながら思いを馳せてみる。
■必然としての出会い
道と道が交差した場所から見ると、それぞれの道は、果てしなく遠いところから交差する一点へ向けて、迷わずに正確無比な精度で一気に伸びてきていることが分かる。
それは必然としか思えない精度である。
その交差する点に伸びてきた二つの道は、それぞれがどこが始まりで、どこが終わりかなんてわからない。
なぜなら、地図で見ると全ての道は全てに通じているから。
だからこそ、どこが始まりで、どこが終わりかなんて、どこにも書いていないし、それを決めるのは自分の都合に過ぎない。
自分が生まれた場所を始まりとしてもいいし、自分の両親、祖先・・どんどん遡っていった場所をはじまりにしてもいい。
終わりも、始まりと同じであって、そんなところはあると言えばあるし、ないと言えばない。
道路を注意して歩いていると、小さい道、大きい道・・・色んな道が交差してくるのが分かる。
自分の視点から出会いを見ると、その交わってきた道は単なる偶然に思えるかもしれない。
でも、交差した地点、地図から見た視点でそれぞれの道を逆向きに見ると、その交差は必然としか言えない精度でつながっているのだ。
自分の道から見ると、出会いは偶然。
出会いそのものから見ると、道との出会いは必然。
■「必然」の理由
なぜ「必然」になるかを考えてみる。
それは、その交差点(出会い)自体が交差する二つの道を前提にして存在しているから。
存在の前提であり根拠である場合、「必然」と感じる。「偶然」という見方はなかなか生まれてこない。
自分の手があり、足があり、心臓があり、血管があり、神経があり、脳があり、・・・・というように、自分の存在の前提の場合は「必然」としか感じず、欠落して初めて「偶然性」を意識する。
この世の「必然性」や「おのずから」や「運命(宿命)」を感じながら生きるということは、自分以外の他者や自分以外の全てのものを、自分という存在の前提・根拠として内部に組み込んでしまうことにつながるのだ。
■自分と自分以外の関係
自分が孤立した存在と見るのは、出会いを「偶然」ととらえていく見方と同じである。そこには自分の中に他者が組み込まれていない。
自分が他者の縁で存在していると見るのは、出会いを「必然」ととらえていく見方と同じである。そこには自分の存在の根拠として、他者を始めとした自分以外の全てのものが組み込まれている。
自分を考える時、
「自分=自分」と考えるか。
「自分=全て―自分以外の全て」と考えるか。
前者は足し算の思考。自分に色々なものを付け加えていくことで「個性」を求める。
後者は引き算の思考。あらゆるものの引き算の結果を、「自分」として受け入れ、引き受ける。
前者で考えると、出会いは、独立した「自分」同士が起こす偶然の産物。
後者で考えると、出会いは、起こるべくして起きた必然の産物。
・・・・・・
僕らは100マスの99マスをこぼれ落とす入れ子構造に生きていて、「偶然」と「必然」の二重性を持つ出会いを重ねながら日々生きている。
「偶然」な思いに引きずられすぎないよう、そして「必然」な思いに引きずられすぎないよう。
その間で引き裂かれ、分裂しないようにしながら、その「偶然」と「必然」を同時に感じたい。
それを、一般的には「中庸」とか「あわい」と言うかもしれない。
そんな状態で長続きすることを「奇跡」と言うかもしれない。
そんな「奇跡」は、「感謝」としか、「ありがとう」としか外へ向けては表現できないかもしれない。
そして、そのことには誰もがいつか気付くのだと思う。
きっと、生まれてからずっとそのことを感じ続けている人もいるし、死ぬ直前に気付く人もいる。死んだ後に気付く人もいるかもしれない。
それは、単に時期が早いか遅いかの違いでしかないのだと思うのです。
Google MapはGoogleの産んだ良い方の文化だよね。これだけ航空写真をみんなが見てる時代って初めてでしょう。マクロとミクロの視点を往復することをこんな手軽にできるなんて!(ちなみに、ストリートビューは若干微妙ね。便利すぎてヤヤ引き。)
「6次の隔たり」の本をちょっと読んで(一人100人知り合いがいるとして、平均で6人経由すれば地球上の人みんながつながるというアレ)、ぼくは、この理論大好きなんだけど。つまり、思った以上に「世界は狭い!」
偶然/必然の視点の取り方って話も、南直哉さんの自我論を想起します。自我は境界線と視点の取り方次第だと。「左右」みたいなもので絶対的なものはない。
…なにか、このあたりの〈感覚〉(…最近、こうして議論(?)を重ねる内に、ぼんやりと輪郭が出来てきたような)が何らか表現できると良いですね。小説なのかな?絵か?歌か?踊りか?はたまた教育や社会制度か?
つまり、この「1」なる自我、それを補強する様々な制度(特に、この一人でガンバル式の学校の試験とか)を、もう何十年もやるの飽きた気もするなー。2030年とかにもセンター試験とかやってるのかね?
…かつて、任天堂のDSが発売前に、コンセプト発表で「2画面」だって情報だけあったときに、僕は想像で、これは宇宙人になって気分のゲーム機なんじゃないかと思った。僕らは像を1つ認識する生物だけど、例えば、肩もみ機みたいな(→)
http://image.blog.livedoor.jp/kou3rd/imgs/3/2/32b922a5.JPG
宇宙人がいて、2つの像を同時に処理できるとしたら…っていうのを体感できるためのゲーム機。2画像同時に処理できる生物なら、スポーツとか絶対独自の出来ると思って。
内田樹さんのblogで、「学力差は、家庭、地域、学校での人間関係の緊密さだ」みたいな記事があって、つまり、「さまざまな『しがらみ』のネットワークの中に絡めとられているせいで、自己利益の追求ばかりでなく、同時に帰属集団の公共的な福利をも配慮しなければならない子どもたちは学力が高い。」のだと。
…このあたり、先日の座談会の見田Jr.の質問を引き合いに出しての「”みずから”はどこから来るのか問題」だよね。
「自分=全て―自分以外の全て」だね。
…と、長くなってきたのでこの辺で~。
でも、交差した地点、地図から見た視点でそれぞれの道を逆向きに見ると、その交差は必然としか言えない精度でつながっているのだ。』
名文!!
ボールド+アンダーラインにしたい!
周囲にピタッとはまった時は、再度書いた方が文章が生かされるよね。
Isくんの書いていることもはまってくるなー。
見田氏、南直哉氏などなどIsくん+いなばさんのおかげでますます興味を持ってきています。
「30年かかって、やっと会えたねー。」
あえり、あえり。
にこり、にこり。
必然性についてときどき思うこと。
毎朝駅で見かける人たち。
いつも家の前ですれ違う同じ人たち。
会社のエレベーターでふと顔を合わす多分同じビルのどこかの会社に勤める人。
こんなにいつもよく似たタイミングで側にいても、出会うことがない。
お互い、出会うというタイミングで出会っていないからなんだけれど。
ぼくの場合は、比較的いろんな人と上手くやっていけても、必要以上に深くつき合うことができない割と不器用な人付き合いなのだけれど、必然性の上にある出会いはピンと違うものを感じます。
確実に出会う予定であった者同士は、出会ってすぐにもう前から知っていたような溶け込み方をしますよね。
そういう経験を多くなくていいから、一つでも二つでもできることはなんと幸せなことなんだろう。
必然の出会いには段階もあって、今の出会いは、もっと今の関係が密になる次の出会いを重ねるかもしれませんよ。
そう考えると、今はもちろん、未来もますます楽しみにになるます。
「100マスの中の1マス」の話。
「自分=全体-全体の中の自分以外」の話。
全部がバーっと、頭の中でつながりました。
そういうことか!!と。
これは、前にあなたの言っていた「一度裏返して、また表に戻ってくる」「何かについて考えるとき、一度それがまったく存在しないとしたら、という風に考えて、また再度その何かを戻してくる」という考え方にもまさにつながっていると思ったのです。
この文章を読んで、私もShin氏と同じようなことを考えました。毎日、無数の人と出会っていて、しかももしかしたら通勤中なんて、同じ人と何度もすれ違っているかもしれなくて、それでも自分の中でその関係性をピックアップすることはなくて。
不思議だねえ。
かけがえのない出会いと同じぐらい、顔を合わすことがあっても言葉すら交わさないで行き過ぎていく人が無数にいるってことも不思議だ。
なんか、書いていてドンドンと勝手に着想が広がったりして、本当はもっと深めれるなーなんて思ってました。笑
自分を考える時、
(1)「自分=自分」と考えるか。
(2)「自分=全て―自分以外の全て」と考えるか。
ってことも、(1)の場合は、不変と考えるわけですよね。西洋的なアイデンティティー?日本語にすると自己同一性っていう摩訶不思議な訳語が?!
(2)の場合は、無常なんですよね。自分なんてどんどん変わる。これはよく分かります。小学生のとき考えていたこと、今考えていること、全然違いますし。
本を読んだり音楽を聴いて全然違う印象を持つのも、まさに情報は固定化しているのに自分がどんどん変わっていて、そのことで世界の見方が変わるからだと思うんですよね。
でも、その変わり方にもいい変化と悪い変化があって、いい変化は世界の見方が広く、深く、柔らかく見えるようになる変化。悪いのは、狭く、浅く、硬くなっていく変化。
自分は不変で変わらないって誤解しちゃうのは、意識の機能だって養老先生は言うよね。
つまり、寝ておきるとき、その度に「自分は誰だ?!」とは思わない。常に、自分は自分であると意識は思い込ませる機能を持っていて、だからこそ自分は不変で変わらないって思い込みやすい短所があるとかって言っているし。
意識とかも、深い問題だよなー。死ぬと意識はどうなるんだろう?火の鳥未来編みたいに、大きな宇宙のコスモゾーンに、エネルギーの集合体として解けていくのかなぁ。死が自己と他者の完全な消滅?この辺の議論は、妄想と空想が広がりますわー。
あ、脱線。
>>>>>>Isくん
確かに、これだけ簡単に航空写真を無料で見れるってのは、人類史始まって以来の出来事だよねー。
鳥になったような感じで、ボーっと忘我の状態で見ちゃう。色々なところに自由に旅できるものー。
確かに、僕もストリートビューはビミョー。ほとんど使わんもん。
鳥になったような航空地図をみんなが自由に見れる時代っていうのは、視点が大きく変わる時代とも言えると思うんだよね。
遣唐使とか遣隋使とか、海を渡るのに大変だった時代があって、飛行機が発達して比較的海外に行ける時代が来て、次は頭の中だけで、意識の上だけで自由に視点を変えることができる時代。
こういう指線が、長い意味で平和な時代へ突入していくきっかけにならないのかなぁ。想像力が欠如しない時代というかねー。
ところで、『1人100人知り合いがいるとして、平均で6人経由すれば地球上の人みんながつながる』っていうのを「6次の隔たり」って名前ついてるんだね!
これ、最初聞いたときはまさしくその通りだなぁと思ったよ。MixiとかのSNSも、まさにそういう考えと地続きな気がする。
Wikipediaに、
***************
日本の社会学者も同様の実験を行った。九州を起点として「北海道の知人を紹介してください。もしいなければ、北海道に知人がいそうな人を紹介してください」と人々に尋ね回った。その結果北海道の人間に辿り着くまでの平均人数は7人であった。コロンビア大学の教授ダンカン・ワッツらが電子メールで同様の実験を行った際は、到達率2%、理論的な仲介人数は5~7人であった。
日本のあるバラエティ番組で、「与那国島の日本最西端の地で最初に出会った人に友人を紹介してもらい、何人目で明石家さんまに辿り着くか」という企画が行われたことがある。結果は7人であった。
***************
とかあって、6-7人たどればどこかにつながるってのは驚異的としか言いようがないー。
でも、SNSとかプロフみたいな、バーチャルだけでとりあえず無理やりつながる知り合いは、やはり脆いような気は未だにしちゃいますけどね。会って話すってことは、いろんな感覚を総動員しているものだし、僕らのからだ自体がものすごい量の意識に上がらない情報を感知しながら生きているものだしねぇ。
・・・・・・・
南直哉さんの<自我は境界線と視点の取り方次第>ってのは鋭いー。
どんどん自分を狭くしていくと、簡単に言え「自分さえよければどうでもいい」っていう発想につながるのよね。それを、数学者の岡潔は(というか仏教用語なのかな。)、『小我』と言って批判するのよね。『大我』で生きなさいと。自分は宇宙そのものとか、そこまで自分を拡張しなさいってことだと思うけど、これは時々ギクリと自分に刺さる言葉なのよねー。
親鸞の悪人正機説とか、インド哲学の輪廻思想とか同じようなもんかもしれん。
悪人を悪人として分離してはいけない。自分と全然関係が無いと思ってはいかん。
自分自身の悪の部分だけが輪廻のように生まれてきたものかもしれなくて、全ての人間は全ての人間の輪廻の姿であるっていうかね。
そこまで自我を拡張していくとき、初めて共感ができたり、他人の不幸で泣けたりするのかもしれん。
この辺の自我論、自己と他者論は、かなり根本の議論だから、応用範囲は相当広いと思うよね。対人関係でも仕事関係でも、人と接するときにどういう風に人と接していくか、死とは何かとか、愛とは何かとか、そういうやや照れくさい議論もこういう自我論とか自己と他者をドンドン深めた先にありそうな気がします。
この辺の話は止まりませんなー。笑
死ぬまで考えてそうー。死んだ瞬間に謎が解けるのかもしれんし、死後の世界でもみんなでこうやって延々とワイワイガヤガヤ話してるかもしれんわー。笑
>>>>>>>ともこさん。
アリが十匹!ありがとう!
わしも、以前のブログ(『他者との出会い(2009-04-04)』)に書いた文章の、
*****************
「ドーナツの穴」のように、「本当の自分」とは何もない。
自己とは、「他者との出会い」の連鎖により勝手に輪郭がつくられ、何かあるように錯覚してしまうものである。
自己というものは、そんな奇跡のような「他者との出会い」の連続・積み重ねにより、勝手に形成されるもの。
「他者との出会い」は、自意識から見ると偶然に見えるかもしれない。
自意識を外し、出会いそのものの視点から見ると、その二人は迷いなく出会う一点をめがけて、すべての人生を送ってきたように見える。
「他者との出会い」は必然とも言える。
「他者と出会う」ためには、自意識まみれた自己の観点から見るのではなく、自分を無くし、他者により自己ができているという風に「ドーナツの穴」として自己を考えた上で、そんな作法で他者に会いに行かないといけない。
そして、心の中には、奇跡に対する感謝の思いを持っておきたい。
*****************
ってのは、半年ぶりに読んだけど、今年4月の俺もなかなかいいこと言うわーって過去の自分に感心してましたよ。笑
「30年ぶりにコンニチワー。」って感じです。
ISくんもともこさんとかも、まあ小中高大学時代までは全然知らんかったわけだし。ほんと不思議よねー。(Makiさんは浪人の18歳から!長い!)
お互い会ってなかったときは、この世に存在していたことすら知らなかったわけだし、まあ未だに存在すら知らない人なんてこの世に限りなくいるわけで、でもそういう人といづれ会うこともあるわけで。 仲良くなる人も仲良くならない人もいたり、それこそ喧嘩したり憎みあったりする人も出会うかもしれんけど、それと同じかそれ以上に気心しれた人と会っていくことも多いわけで。 なんとも摩訶不思議だー。
こういうのって『おのずから』なのかなぁ。『みずから』の要素もあるんだろうけど、大きい部分は 『おのずから』なんだろうなぁ。
最近は、もう自意識過剰に自分の道を切り開く!なーーんてのは全然なくなっちゃいまして、色んな人の縁で、その大河を流れるようにゆらりゆらりと行こうかと思っとりますよ。
志賀直哉のナイルの一滴の考えかなぁー。
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◆志賀直哉『ナイルの水の一滴』
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人間が出来て、何千万年になるか知らないが、
その間に数え切れない人間が生れ、生き、死んで行った。
私もその一人として生れ、今生きているのだが、
例えて云えば悠悠流れるナイルの水の一滴のようなもので、
その一滴は後にも前にもこの私だけで、
何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。
しかも尚その私は大河の水の一滴に過ぎない。
それで差し支えないのだ。
-------------------------------
それにしてもともこさん!
『あえり、あえり。
にこり、にこり。』
榎本俊二の《ムーたち》の世界にはまりすぎてる~!笑
わしが、「ムーたち」榎本俊二(2009-10-21)で書いた、
*************
とにかく、すごい漫画なので脳がどんどん侵食されていきます。(笑)
それなりに強靭な脳を持つ人じゃないと何が何だか分からなくなるのでご注意ください。この世界がほんとにあるのか、ないこともないのか、あると言えばあるし、ないと言えばないのか、そんな感じになってくること間違いありません。
「意味」「存在」「理論」「イメージ」「言葉」「意識」・・・・色んな概念そのものを解体してくる恐るべき漫画です。
************
つて書いたとおり、影響受けすぎて脳を浸食されてるでしょー。笑
まあそれは、<嬉しる、嬉しる。ニコリ、ニコリ>って感じです。
ほんと、日常でもとんでもない数の人とすれ違いますよね。
新宿とか歩いていると、こんなにもみんな違う顔をして違う人生を送っていて、お互い通り過ぎるだけで直接の関係性はなさそうに思えちゃいますけど、農業をしていたら何か食べているかもしれないし、製造業の人だと何か使ったことあるのかもしれないし、一生のうちで直接的には出会って話さなくても、何らかの意味で縁があってつながってるのかもなぁと思うと、不思議な気持ちになります。
Isくんが言うような「6次の隔たり」の話も、地球の裏側の人とつながるってのも不思議だけど、新宿とかで通り過ぎていく大勢の人たちとも6人程度でつながるっていうのは、何かリアルな感じで不思議です。
大学病院も巨大な場所だし、医者だけじゃなくて看護師、工学技師さん、検査技師さん、物品担当の人、掃除の人、警備の人・・・まあとんでもない数の人たちが関わっているわけですが、同じ職場ですら直接的に話したことがある人は少ない。
これもまた悲しい話だなぁって思いますよね。
Shin君が言うように、
『確実に出会う予定であった者同士は、出会ってすぐにもう前から知っていたような溶け込み方をしますよね。』
これは本当にそう思いますね。ピン!ときます。わしももう30歳なので、外見とか見てくれとかも判断材料になるけど、話すときの落ち着き方とか、言葉の言い回し方とか、目つきとか仕草とか、そういう非言語的な領域で、相当の情報を受け取るようになってきましたよ。年齢を重なると、人の見方が何層にも深くなるというかね。
まあ、ある一定の時期お互いの都合が合わなくて、実際に会って話したりしていなくても、全然久々な気がしない。この前の話の続きだけど・・って感じですぐ話せるというかね。
まあ、そういう人ってそう何十人もいるわけではないだろうし、その時、その場所で、一期一会の心がけで接していかないといかんのでしょうね。そういうのを、観念で理解するだけではなく、ちゃんと地道に実践していかないといかんですなー。
>>>>>>>>>makiさん
そうそう。
「一度裏返して、また表に戻ってくる」
「何かについて考えるとき、一度それがまったく存在しないとしたら、という風に考えて、また再度その何かを戻してくる」
の話、これは思考実験として最近はまっとるのよー。
このことに関してもブログ書けば、どんどん数珠つなぎで果てしなく続いちゃうんだけど、まあ会って話してみたりして、色々着想を得てみたいなぁともおもっとります。
いろんなことを、一度裏返してじっと考えて、そこでもう一回表に戻すと、あーら不思議。なんかさっきまでずっと表だったものが少し違って見え始めるのよね。
これは、武術家の甲野さんが、『人間は全ての運命が決まっていると同時に、自由である。例えば、紙の表に文字がびっしり書いてあって、全ての運命は予定されて決まっているように見える。でも、裏に返すと完全な白紙で、何でも書けるような状態で、完全に自由。だ。』みたいな発言をしてたりするんだけど。あ、Youtubeでもこれ言ってたような。
甲野善紀:向かい合う感覚
http://www.youtube.com/watch?v=P2whUQVTeDI
なんか脱線してくるんだけど(笑)、まあ甲野さんのこの発言も同じようなものの見方かなぁとね。