西川美和さんの「ディアドクター」を映画で観てジーンとして、シネカノン有楽町で特別再演していた「ゆれる」映画版を観てガーンと衝撃を受けて、やっと小説版である「ゆれる」 (ポプラ文庫) を読めた。
時系列順で入った人(小説→ゆれるの映画→ディアドクターの新作を楽しみにして観た)の方が多いのかもしれないけれど、何の因果か逆からたどったのです。
(⇒映画「ディア・ドクター」の感想(2009-09-08)はココに書いた。)
いやぁ、この小説もすごいー。
才能溢れるとはこのことで、文章の表現力のスゴさに圧倒的なものを感じる。
やはり、映画監督の中でも、映画の脚本を自前で書ける人っていうのは頭イッポン抜けてすごい。
最近の映画は売れたマンガや小説を原作に映画化することが多く、脚本も監督も同じ人がしているパターンが減ってきている気がする。
特にマンガを映画化すると、「なんか違うなー」と思ってしまう事が多くて、その「なんか違うなー」は多分正しい。
何かモヤモヤしたものがあって、それがとてつもなく大切なものである直感があるからこそ、共有したいと思う。 僕らのように「表現」を職業としない一般人は、とりあえず言葉で切り取って「おしゃべり」で伝え、共有する。
そのモヤモヤを、更に深い部分に高密度で他者に伝える場合は、表現手段そのものを磨き上げる必要がある。
言葉を磨き上げて「物語り」として伝えたり、イメージを「映像」で切り取って映画にしたり・・・無数にある表現手段の中から選択していく。
そのモヤモヤした不定形のものは、その人にしか質感やサイズが分からないので、どの表現手段がいいかは、モヤモヤを抱えた人にしか分からない。
だから、脚本と監督が同じ人だというのは理想的だし、小説も映画もあのクオリティーで完成させられる西川さんは改めてすごい。
・・・・・・・・・・・・・・
映画で「ゆれる」を観たときは、記憶とか思い出とかが揺さぶられたけど、この小説も同じようによかった。
まさにドーナツの穴の部分。
ドーナツの穴の中心である、何にもない穴に近づくために、周囲を語ることで結果的に中心となる物語りを語っていくような構成だった。
この小説は、そういう風に複数の登場人物の「語り」により、その物語が縁取られ、中心がボンヤリと見えてくる。
「語り」が複数集まることで、ドーナツの穴の周囲の部分が「語られる」。その縁取りの結果、中心を軸として貫く穴のような存在の「物語り」が完成していく。
物語りの中心を「穴」で例えたのは、みんなが共有する「本当の物語り」そのものは実在しないから、実態がない「穴」に例えたのです。
人には過去があって、その過去の積み重ねで現在がある。
木の年輪に例えられたり、土地の地層に例えられるのは、そういうイメージからだと思う。
過去は肯定しようとも、否定しようとも、そんな過去がなければ現在は成立しない。
ただ、僕らは自分の都合でいろんな出来事を「解釈」して、「再構成」して、うまい具合につながるよう無意識に「編集」しながら過去を作る。
そうすることで、過去の上につみあがる現在を安定させようとする。
そういう変容していく過去は、「記憶」といえるかもしれない。その「記憶」を連結させていくと「物語り」になっていくのかもしれない。
僕らは、世界をほんの一日生きるだけで、処理能力を遥かに超えた情報の洪水の中で生きている。
自分の視覚には膨大な情報が勝手に見えて飛び込んでくる。
そのごった煮のあらゆるものを、何かの基準で「記憶」として自分の中に定着させる。
自分の周囲で起きているあらゆる物事を「過去」とすると、その中で濾過されて自分に保存されるものが「記憶」のようなものかもしれない。
「過去」と自分の中で濾過された「記憶」が、それぞれの人で異なって存在していて、そんな「記憶」の層が人間の数だけ層構造で重なっている。
「過去」を否定した「記憶」として自分の中で定着させることもできるし、「過去」を肯定した「記憶」としても定着できる。
その「記憶」を滑らかにつなげて、それぞれの人はそれぞれの「物語り」をつくり、生きている。
そうして、「過去」は過小評価されたり過大評価されたりして伸縮自在に伸び縮みしながら、そんな風に「ゆれる」状態を続けながら、それぞれの「現在」を形作り、彩る。
・・・・・・・
そんなことを考えさせられた小説です。
映画を観て、それに重ね合わせながら小説を読んだからこそ、自分の奥深くに働いてきたのかもしれない。両輪のようにお互いがお互いを補完しているようです。
言い足らぬこと、映像で見せ足りぬこと、それぞれを補完しているというか。
西川美和さんってほんとスゴいわ。
もうびっくりしてしまいました。
ちなみに、小説は映画よりも更に人間の闇をえぐってる気がして、時々背筋がゾッとする凄みも感じました。
***********************
P65
この人は、私だ。
大人しい驢馬(ロバ)のような顔をして、こころに鬼を飼っている。
この人が、私だったのだろう。そう、思いました。
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P183
じくじくと熟れきって、誰も手を触れたがらない腐臭を漂わせるようになるのをきっと待っていたんです。
ずるいんです。闘わず、傷つかず、勝利を勝ち取ろうともしないくせに、零れ落ちた売れ残りの汁を吸って、生きながらえようとするんです。
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P206
兄弟は楽しげに笑い、遊んでいた。けれど、それを観ている俺は不安だった。
全く憶えてないのだ。懐かしさよりも、その空白が恐ろしかった。
俺は今まで一度も疑ったことがない。「父を愛せない」という観念を。
俺の心が、俺の頭を揺さぶって、記憶のボタンを掛け違えさせてきたのだとしたら。
もしも、・・・・。
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時系列順で入った人(小説→ゆれるの映画→ディアドクターの新作を楽しみにして観た)の方が多いのかもしれないけれど、何の因果か逆からたどったのです。
(⇒映画「ディア・ドクター」の感想(2009-09-08)はココに書いた。)
いやぁ、この小説もすごいー。
才能溢れるとはこのことで、文章の表現力のスゴさに圧倒的なものを感じる。
やはり、映画監督の中でも、映画の脚本を自前で書ける人っていうのは頭イッポン抜けてすごい。
最近の映画は売れたマンガや小説を原作に映画化することが多く、脚本も監督も同じ人がしているパターンが減ってきている気がする。
特にマンガを映画化すると、「なんか違うなー」と思ってしまう事が多くて、その「なんか違うなー」は多分正しい。
何かモヤモヤしたものがあって、それがとてつもなく大切なものである直感があるからこそ、共有したいと思う。 僕らのように「表現」を職業としない一般人は、とりあえず言葉で切り取って「おしゃべり」で伝え、共有する。
そのモヤモヤを、更に深い部分に高密度で他者に伝える場合は、表現手段そのものを磨き上げる必要がある。
言葉を磨き上げて「物語り」として伝えたり、イメージを「映像」で切り取って映画にしたり・・・無数にある表現手段の中から選択していく。
そのモヤモヤした不定形のものは、その人にしか質感やサイズが分からないので、どの表現手段がいいかは、モヤモヤを抱えた人にしか分からない。
だから、脚本と監督が同じ人だというのは理想的だし、小説も映画もあのクオリティーで完成させられる西川さんは改めてすごい。
・・・・・・・・・・・・・・
映画で「ゆれる」を観たときは、記憶とか思い出とかが揺さぶられたけど、この小説も同じようによかった。
まさにドーナツの穴の部分。
ドーナツの穴の中心である、何にもない穴に近づくために、周囲を語ることで結果的に中心となる物語りを語っていくような構成だった。
この小説は、そういう風に複数の登場人物の「語り」により、その物語が縁取られ、中心がボンヤリと見えてくる。
「語り」が複数集まることで、ドーナツの穴の周囲の部分が「語られる」。その縁取りの結果、中心を軸として貫く穴のような存在の「物語り」が完成していく。
物語りの中心を「穴」で例えたのは、みんなが共有する「本当の物語り」そのものは実在しないから、実態がない「穴」に例えたのです。
人には過去があって、その過去の積み重ねで現在がある。
木の年輪に例えられたり、土地の地層に例えられるのは、そういうイメージからだと思う。
過去は肯定しようとも、否定しようとも、そんな過去がなければ現在は成立しない。
ただ、僕らは自分の都合でいろんな出来事を「解釈」して、「再構成」して、うまい具合につながるよう無意識に「編集」しながら過去を作る。
そうすることで、過去の上につみあがる現在を安定させようとする。
そういう変容していく過去は、「記憶」といえるかもしれない。その「記憶」を連結させていくと「物語り」になっていくのかもしれない。
僕らは、世界をほんの一日生きるだけで、処理能力を遥かに超えた情報の洪水の中で生きている。
自分の視覚には膨大な情報が勝手に見えて飛び込んでくる。
そのごった煮のあらゆるものを、何かの基準で「記憶」として自分の中に定着させる。
自分の周囲で起きているあらゆる物事を「過去」とすると、その中で濾過されて自分に保存されるものが「記憶」のようなものかもしれない。
「過去」と自分の中で濾過された「記憶」が、それぞれの人で異なって存在していて、そんな「記憶」の層が人間の数だけ層構造で重なっている。
「過去」を否定した「記憶」として自分の中で定着させることもできるし、「過去」を肯定した「記憶」としても定着できる。
その「記憶」を滑らかにつなげて、それぞれの人はそれぞれの「物語り」をつくり、生きている。
そうして、「過去」は過小評価されたり過大評価されたりして伸縮自在に伸び縮みしながら、そんな風に「ゆれる」状態を続けながら、それぞれの「現在」を形作り、彩る。
・・・・・・・
そんなことを考えさせられた小説です。
映画を観て、それに重ね合わせながら小説を読んだからこそ、自分の奥深くに働いてきたのかもしれない。両輪のようにお互いがお互いを補完しているようです。
言い足らぬこと、映像で見せ足りぬこと、それぞれを補完しているというか。
西川美和さんってほんとスゴいわ。
もうびっくりしてしまいました。
ちなみに、小説は映画よりも更に人間の闇をえぐってる気がして、時々背筋がゾッとする凄みも感じました。
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P65
この人は、私だ。
大人しい驢馬(ロバ)のような顔をして、こころに鬼を飼っている。
この人が、私だったのだろう。そう、思いました。
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P183
じくじくと熟れきって、誰も手を触れたがらない腐臭を漂わせるようになるのをきっと待っていたんです。
ずるいんです。闘わず、傷つかず、勝利を勝ち取ろうともしないくせに、零れ落ちた売れ残りの汁を吸って、生きながらえようとするんです。
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P206
兄弟は楽しげに笑い、遊んでいた。けれど、それを観ている俺は不安だった。
全く憶えてないのだ。懐かしさよりも、その空白が恐ろしかった。
俺は今まで一度も疑ったことがない。「父を愛せない」という観念を。
俺の心が、俺の頭を揺さぶって、記憶のボタンを掛け違えさせてきたのだとしたら。
もしも、・・・・。
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この記事は、自分が本を読見終えてから読もうと思っていたから、やっとコメントできますす。
とにかく、素晴らしい描写ですね。
本を読んで出てくるいろんな場面を勝手に想像したのですが、どうもこの西川美和さんの文章って、色合いが想像できるのと同時に、匂いや温度も想像させられるっていうか、より五感を通したリアルな場面を空想できます。
これを、ご本人脚本で映画化されているなんて!!絶対見ます!
これまでこういった形で登場人物の目を通したストーリーで展開される小説っていくつか読んだことがあるけど。
でも。この「ゆれる」では、色々な人の目線から書かれてはいるけど、同じ瞬間の、その時の情景、心境はやはり一人の人の体を通したものしか描かれていないってところが、うまいなあって思いました。よくありがちなのは、同じ瞬間を男性側からと女性側から両方とも描写してある小説。これは、かゆい所に手が届くようで一見すっきりするようだけど、最近は年をとったせいか、そこら辺は勝手に想像させてほしいなあと思うようになりました笑。
カンリニンさんの言うとおり、
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「語り」が複数集まることで、ドーナツの穴の周囲の部分が「語られる」。その縁取りの結果、中心を軸として貫く穴のような存在の「物語り」が完成していく。
物語りの中心を「穴」で例えたのは、みんなが共有する「本当の物語り」そのものは実在しないから、実態がない「穴」に例えたのです。
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その通りだと思います。
本当の事実そのものの実在はこの際、どうでもいい。いや、まあどうでもいいということはないけど、誰かの体や心を通して受け取ったものを我々が垣間見ている。真実は、他人との関係性の中にしか、見いだせないのかもしれない。
いやあ、深い。
素晴らしい小説でした。
西川美和さん作品を、ちょっとチェックしてみます!
読んでもらえて嬉しいー。
西川さんって書くと、あなたの旧姓だから懐かしいでしょ?笑
この本、いいよねー。
僕は映画見た後読んだから、ああ、こんな心情で!って感じで、驚いたとこが多かったよ。
文章も普通にすごくうまくて、比喩も狙ってなくて自然でね。
そういう感じが、<より五感を通したリアルな場面>につながるのかなぁ。
本当の事実とかって、そこで自分がこだわる必要ないんだよね。
こだわってるのは自分だけのことが多い。
むしろ、自分が意図しなくても、他の人にどう見られ、どう思われ、どう受け止められたか。そこが大事なんだよね。それが他者性なんだと思うなー。自意識過剰じゃないっていうか。
自分の意図とおり相手に伝わるっていうのは、まあ自意識過剰だよね。
というか、逆にそんな世界は怖いかもしれん。
少しずつずれていくからこそ多様で面白い。
同じように伝わるのは、洗脳に近いのかもしれんし。
他人との関係性を通して世界を見ていくっていう眼差し、最近は特に意識するなぁ。
確か、『人間』って、中国だともともとジンカンとか呼んで、世間とか世界とかそういう意味なのよね。
日本では、人を表現するときに人間=世間のようなものとして人を表現しているわけで、ここには日本特有の、何か深いものがあるんだろうなぁ。