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日常

松井冬子展

2012-01-22 18:24:50 | 芸術
横浜美術館「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」を見に行きました。


松井冬子さんは、色々な縁があって直接の知り合いです。(紅白に審査員で出てたのには驚いた!そしてすごい!)

今回の個展のオープニング時に、ユーミンとの対談も聞きに行きました。
そのとき、冬子さんのオーラもすごかったのだけど、ユーミンのオーラもすごいものがあった。(別に江原さんみたいにオーラが見えるわけではないんです。オーラは一種のたとえです。)

初めて生ユーミンを見たのですが、もうキラキラしていた。
歩いていると後ろにキラキラと星がこぼれ落ちているのではないかというほど(よくわからないたとえですが)、そのキラキラとした感じ、人として開かれた感じ、トークの合間から醸し出される深い精神世界、そんないろいろなものをさらに好きになったのでした。(実際、自分は夜中にヒーヒー言いながらスライドを作ったり論文を書いたりするとき、ユーミンか宇多田ヒカルさんの歌を聴いている。なぜかはわからない。)

冬子さんとユーミンの対談のトークは、もうとんでもなく面白かった。呼応してたと思いました。
帰りに、冬子さんのお母様に感想を聞かれた時も「あんなにユーミンを引き出せるなんて、冬子さんすごすぎます!」と言ってしまったほど。
相手を引き出すには、対話の相手と同じような深さで共鳴する必要がある。そんな通奏低音を倍音のように感じました。


それくらい、ユーミン(この呼び方も、ふとなんだか慣れ慣れしすぎる気がしてきた。まあしょうがない。)の魅力を十二分に引き出すほど、作り手としての冬子さんの感性の鋭さとユーミンは呼応して、深い場所でつながっているのを感じました。

松井冬子さんのいろんな発言の中で特に好きだったのは「私は真実(真理)を明らかにしないといけないと思っている」というような言葉でした。この表現にすべてが込められていると思ったのです。






展覧会の感想ですが、思った以上に作品数が多くてすごかった。
とても深いものを感じ、近いものを感じ、とてもうれしく、感動しました。すごかった。


ひとつひとつの作品に書いてある解説が、抽象的で哲学的で、そこもすごくよかった。改めて魅力を感じました。独特の文体があります。絵描きという狭い枠で固定化する必要はありません。人間である以上、表現は無限に自由なはずです。絵描きであっても物書きであっても、そのときにベストな表現方法を適時選んでいけばいい。そういう意味で、独特の文体で紹介される文章にも見入ってしまいました。
そして、松井さんはかなり「心理学」に近いものを絵で視覚的に追求しようとされているのだ、ということも感じました。


松井さんの絵の世界では生と死の境界がほとんどありません(元々、自然界はそういうもので、目まぐるしく循環して動いているものですし)。
念とか思念とか、そういうエネルギー体に近いものを絵で表現していると感じました。
(人間が死んだら、念とか思念だけの世界になるみたいです。だから嘘をつけないってことですね。美輪さんやスウェーデンボルグが本でそう書いてます)



松井さんが「真実(真理)を明らかにする」「ほんとうの現実を見る」ために、人間の内臓や狂気や死の風景が、ほぼ必然的に出てきます。
一部の人には拒否反応を示してしまうかもしれません。

ただ、どんな人でも、富もうとも貧しかろうとも、若かろうと年老いていようとも、表面の皮の中には誰もが内臓を抱えています。そのために生命は維持できている。

でも、それは普段は目に見えません。人間は目に見えないものを想像することに不得意です。
普段は表に露呈しないもの(たとえば内臓、たとえば死)を見ると、気持ち悪い感覚にとらわれることがあります。それはある意味しょうがない。普段は隠されているものですからね。


ただ、内臓も死も、僕らは誰もが平等に持っています。そこに例外はありません。
内臓が全くない人も今までいなかったし、一切死ななかった人もいままでいません。


内臓たちは、僕らひとりひとりの生命を生かすために、日々せっせと活動して生きています。
そして、僕らの肉体や精神を作り出し、人間の生命を維持させています。普段は目に見えないけれど、縁の下の力持ちです。


内臓が気持ち悪いとされるのは、単に普段見慣れてないから、という単純な理由の気がします。
食卓に牛の内臓や魚の内臓が出ても、人はあまり気持ち悪がりません。むしろ、食べてさえしまいますから。



松井さんが執拗に内臓を書くのを見て、ふとブッダのことを思い出しました。

里中満智子さんの「ブッダをめぐる人びと」(2011-10-25)から引用します。

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≪アーナンダに恋した:プラクリティ≫
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『そなたの言っていることはうわべだけではないか?

アーナンダのうわべがもしも消えたら、何が見えるかな?
骨、内臓、そして内臓につまった大小便でも見えるだろう。
それでも美しいと思えるかな?

だが、様々の汚いものも含めて「その人の存在」なのだよ。』
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内臓は確かに気持ち悪いかもしれない。大腸には便があり、膀胱や腎臓には尿がたまっているかもしれない。
でも、それが人間なのです。
それもすべて愛せないと、人は愛せない。


僕らのように医療に携わる人間は、年老いた人々を数多く診ています。
年老いた人々は、排尿や排便を自分で管理できなくなり、非常につらくかなしい思いをされます。

そういう下の世話を積極的にしてくれるのは看護師の方々。そんな誠実な仕事に、いつも頭がさがります。
医療は人間存在すべてを扱うものです。
きれいとかきたないとかは、単に観察する側の心理状況でしかありません。



人間は、常にきれいで華やかでおしゃれで優雅なものだけですべてが構成されているわけではありません。
時にはかっこわるく、不細工で、無様で、みっともないこともあります。時には失敗もするでしょう。
でも、それも全部含めて人間という存在なのだと、思うのです。それが「真実」(ほんとのこと)。

ただ、
『真実は劇薬、嘘は常備薬』(河合隼雄先生)
と言うように、時に「真実」は劇薬となります。嘘をついてごまかした方がいいときもあります。
真実は劇薬なので苦いもの。刺激も強いし、ある種の過敏反応やアレルギー反応を示します。それは、その人の機が熟してなかったのだと思います。


「真実」(ほんとのこと)に対して、誠実に純粋に生きていると、この世界はなにかと生きにくい。逆風も多いでしょう。
でも、ほんとのことは、誰かが語り続け、保持し続けないといけないものです。
そのために「表現」という、人間が個別に与えられた手段があります。

画家は絵により、音楽家は音により、物書きは文字により、現場の人間は行動により、・・・・各々が「表現」を続けます。
この世界に溢れる多様な存在の中で揉まれながら、表現を磨き続けるのです。


そんな風に、松井さんの表現には「強い意志」を感じました。
どんなに逆風がふいても、「ほんとのこと」を表現し続ける強い意志を。

きっと、それは誰かを癒す治療行為になっていると思う。
それはたとえ一部の人であっても、そのことで励まされ、癒され、治療される人が必ずいます。
だから、その表現は尊いのです。
すべてに満ち足りたひとのための表現だけではなく、立場が弱い人のための表現もあるのです。







松井さんの求道的な日本画の世界を見ながら、誤解も美醜すべて包含しながら進んでいく世界を見ながら、なぜか、ふと宮沢賢治が頭に浮かびました。


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宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
『(ジョバンニ)僕はもうあのさそりのように、ほんとうに皆のさいわいのためならば僕の体なんか百ぺん灼いてもかまわない』
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『僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。
 きっとみんなのほんとうのさいはひをさがしに行く。
 どこまでもどこまでも僕たち一緒に行こう。』
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宮沢賢治「農民芸術概論」
『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する。
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか。

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある。

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である。』
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宮沢賢治は「ほんとうのほんとう」を追い求めた人でした。

ほぼ日で吉本隆明さんがおっしゃった事(2009/10/5)を引用します。

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宮沢さんは科学者でありながら、宗教家として自分を規定しているので、その両方で考えをおし進めたり深めたりしていくと、科学と宗教のふたつを『分けることができない』という問題に当面しました。

これを、宮沢さんは別の言葉で言おうとしてます。
その言葉は、みなさんよく読んで見ると思いますが『ほんとうのほんとう』という言葉です。

ひとつの考えがあって、それとは反対の考えがあって、それで国家と国家で戦争になったりすることはみなさんご自分でも体験してるでしょう。ぼくも体験してます。

だけど『ほんとうのほんとう』はどうだろうか。

どちらかからもほんとうだと主張しながら、どちらもほんとうとは言えないみたいだ。

これは、宮沢さんの言いたかったことのように思います。
実際に、軍事的なこと、殺伐なこと、残酷なことに一切関与しないで、一生を過ごされたということは、そこからきてると思います

飢饉があるときや、宮沢さんで言えば寒さの夏、穀物も野菜もあんまり発育できなくて少なくしか採れないことになったとき、宮沢さんは、一筋に自分ができる限り、ほんとうに身をもって、農家のお年寄りの手を引くように収穫の多かることを品質的に考え、肥料を土壌の性質に従って設計して与え、おじいさんやおばあさんが田畑を耕していたら必ずそばへ寄って手助けする、そういうことを本格的にやった人だと思います。

これは、宮沢賢治が持っている『ほんとうのほんとう』ということの実践というのでしょうか。
実行というのは、ほんとうにこのことに尽きるわけです。

理論的にこうだこうだと言って集団をつくって、いつまでも何もしない集団がたくさんありますし、ぼくらみたいにやりもしないでなんか言ってるとか、そういう場合もあります。
 
けれども、宮沢さんは、そういうことは全然ないんですよ。
宮沢さんは『ほんとうのほんとう』を、地上からあるいは地下から縦に関係を求め、これを自分の思想としているし、自分が現実に手足を動かして実行することもやります。

だから、ぼくはこれまでいろんな人の悪口を言ってきましたけど、言わなかった人っていうのは宮沢賢治ぐらいです
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画家の方も、作り手とされる方も、学問をするものも「ほんとうのほんとう」を探しているはずです。
それは対立や争いを生むものではありません。
人の心の中で優しく燃え、人の心を温めるような素朴なものであるはずです。
そのために、僕らに「良心」が備わっているのでしょう。

それは、資本主義やお金や便宜や一過性の快楽や欲望に、決して屈してはならないものです。





村上春樹さんがカタルーニャ国際賞スピーチでおっしゃられたことを、自分はずっと考え続けています。


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日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。

それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。

我々は夢を見ることを恐れてはなりません。
そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。
我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。
人はいつか死んで、消えていきます。
しかしhunamintyは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。
我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
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「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬に咬まれてしまうのではなく、宮沢賢治が求めた「ほんとうのほんとう」を、春樹さんがおっしゃる「非現実的な夢想家」として強い足取りで前に進んでいかないといけないのでしょう。



松井さんの、生も死も越えて、きれいもきたないも越えて、誠実に「ほんとうのこと」を追求しようとする姿勢には、深い共感と敬意を感じました。

松井さんの日本画には確かな技術的な力強さがあります。
誤解も美醜も妄想もすべて包含しながら、それを栄養としながら膨らんでいく世界を見ながら、見終わった後に深い充実感を感じました。



この世界には、きれいなものも、きたないものもありません。
そういう風に見る人間がいて、そういう風に解釈する人間がいるだけです。

それは向こう側の問題ではなく、こちら側の問題。
問いや問題は、向こう側の彼岸にあるのではなく、こちら側にあります。


人間も自然もありのままに存在しています。
ただ、こちら側の心理状況次第で、人間同士はあたためあい、傷つけあい、なぐさめあい、求めあい、おとしめあい、助け合い、・・・そうして、多様な表情を見せながら、日々生きているものです。
そんな多様な中で、どういう人生を選ぶかは、24時間、1秒1秒、自分の意思で選び続けているのでしょう。




偏見なく、ありのまま、見ることをお奨めします。
子供の時のように、それこそ、この世に生まれ落ちる前の時のような心境で。
ありのままに。ありのままに。


それは、哲学者の西田幾多郎が言うところの「純粋経験」のようなもの(自分の主観と客観が分かれる前の状態。知・情・意の区別がない状態)。
禅語で言うところの「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)」のようなもの(自分の父や母すら生まれる以前の状態。相対的な存在にすぎない自己がない状態)。



夏目漱石の「門」の中で、禅寺の門をくぐった主人公に「父母未生以前本来の面目は何か、考えてごらん」と僧が公案を授ける場面があります。

松井さんの個展も同じようなもの。
「父母未生以前」のものを考えるための門(ゲート)が開き、訪れる人たちが禅問答としての公案を問われているのです。

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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家内が横浜美術館でお世話になりました。 (松井 久利)
2012-10-05 09:00:41
稲垣様のブログ拝見しました。
貴重なご意見誠に有難うございます。
今後とも、冬子をご指導くださるようよろしくお願いいたします。
このブログが益々発展されることお祈り申し上げます。
松井 冬子の父親より
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コメント有難うございます。 (稲葉)
2012-10-07 20:31:40
>松井久利様
冬子さんのお父様からコメントを頂くとは恐縮です。コメント有難うございます。

初めまして。稲葉と申します。旦那様共々親しくさせていただいております。
横浜美術館の個展も素晴らしかったです。お母さまも冬子さんも、とても素晴らしい着物をお召で、とても似合っていました。

自分も、冬子さんの今後のご活躍を心から応援しておりますし、期待しています。雑誌などの記事は、いつもチェックしています。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。
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