518年、継体天皇は筒城宮から弟国宮へ遷宮します。 宮跡の推定地は京都府長岡京市今里付近というから乙訓寺付近とされている。 乙訓は、長岡・向日・大山崎地域を指す地名で、古くは「弟国」と記され、 葛野郡から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」としたことに由来すると考えられている。 ただ、弟国宮に繋がる遺構の発見はなくその正確な場所はわかっておらず、筒城宮や樟葉宮などのように石碑も説明板もない。 乙訓寺は桓武天皇の皇太子・早良親王が幽閉された寺として知られ、 785年、長岡京造営工事の責任者の藤原種継が何者かに射殺され、事件の黒幕として皇太子・早良親王が逮捕されここに幽閉、皇太子は無実を訴え食を断ち餓死し、この怨霊問題が発端となり平安京への遷都に繋がっていくのです。
ところで、継体天皇が、筒城宮から弟国宮という大和から遠い地点に宮を移したことにより、大和には継体天皇に敵対する勢力・葛城氏が勢力を誇っていたとも考えられるが、樟葉宮により淀川を、筒城宮により木津川を、そして弟国宮により桂川を支配していったとも考えられ、継体天皇からすれば予定の拠点づくりだったのかもしれません。 三大水系を押さえた天皇がいよいよ大和に宮を築いたのは即位後20年目の526年で、これが磐余玉穂宮である。 磐余は、神功皇后、履中天皇が都を置いた磐余稚桜宮が置かれたところでもある。 ここには磐余池という大池があったとされ、池のほとりに磐余稚桜宮、磐余玉穂宮の他に清寧天皇の磐余甕栗宮、用明天皇の池辺雙槻宮なども営まれたと伝えられ ている。
ところで、「日本書紀」の中に、継体紀以外で乙訓という地名が書かれているところが唯一垂仁紀の箇所にあります。丹波の道主王の子供である5人の姉妹を垂仁天皇に召し入れます。 その姉妹の長女・日葉酢媛を皇后として、残り3人の妹たちは妃となりますが、五女の竹野媛は、容貌がまずいということで故郷の丹波に戻されることになります。 竹野媛は帰り道の葛野で自ら輿から落ちて自害したことから、その地を堕国というようになり、現在、弟国(乙訓)は、それが訛ったものだという説がある。 丹波の豪族が大和朝廷と婚姻によって強く結びついていたということでもあり、 京丹後市の竹野神社に隣接して築かれている前方後円墳・神明山古墳と竹野媛とは関係があると見られる。
武烈天皇の死後、大連大伴金村らによって越前の三国から迎えられたオホド王は507年に樟葉宮で即位したと伝えられています。 このとき王の知己であった河内馬飼首荒籠が密使として活躍しており、即位には北河内を本拠地とする馬飼部の大きな貢献があったと考えられます。 継体天皇は5年後に山背国筒城、12年後に弟国に移りましたが大和国にはいったのは20年後のことです。 以上は日本書紀によりますが、古事記には樟葉宮以降のことについては何も記していません。 樟葉宮と伝えられるのは、貴船神社のある小丘のあたりです。 続古今和歌集で、関白左大臣・一条実経は次の歌を詠んでいます。 「くもらじな ますみの鏡 かげそふる くずはの宮の 春の夜の月」 (樟葉宮跡 説明板より)
澄み切った鏡のような池に春の夜の月が映っていて、樟葉宮も光を浴びて池に影を落としていると、樟葉宮と月を重ね合わせている歌である。 この池は鏡伝池と呼ばれていて、古くから鏡池の名で月の名所だった。 今では市民の森公園がつくられ人々の散策が絶えないが、鎌倉時代には継体の樟葉宮が鏡池の間近にあったと伝えられていたのである。
日本書紀によると、継体天皇は河内の507年樟葉宮で即位し、山背の筒城宮に遷りそこから 518年弟国の宮に遷ると記述がある。 筒城宮の地は仁徳天皇の皇后・磐之媛の故郷とも伝えられている。 しかし考古学的には筒城宮址の位置は不明であり、関係の遺跡が木津川沿いにあったとい見解も最近出されている。 一方「興福寺官務」に記載のある筒城寺が現在の普賢寺大御堂を中心とする観音寺であって、筒木大寺や普賢寺址に関係することが知られている。 これにより筒城宮の所在地を筒城寺の近接地に比定する見解が生まれた。 1928年に三宅安兵衛の意思によって、浜田青陵博士の書になるという「継体天皇皇居故址」の碑が 多田羅の三軒家に建てられたことはよく知られている。 1960年には、地名の都谷にゆかりを求めた地元の有志による筒城宮址会が筒城宮址の碑を現在の同志社国際高校の敷地内に建立した。 この建立にあわせて継体天皇皇居故址の碑も隣接地点に移設された。 1986年にこの石碑は地元の要望もあって同志社大学構内の不動尊遺址碑の脇に再度移設され現在に至っている。
これは、同志社大学構内にある筒城宮址の説明板に書かれていたものである。 新王朝の始祖ともいえるオホド王(継体天皇)が越から南下して最初に都としたのが北河内の樟葉宮で、次に都としたのが南山背の筒城なのである。 因みに三番目に都としたのが山背の弟国宮である。 樟葉、筒城、弟国はいずれも重要な歴史的な地名で、律令体制下では筒城は綴喜郡、樟葉は葛葉郷、弟国は弟国郡となっている。 森浩一先生の著書は弟国宮と丹波地方とを結ぶ歴史的意義から本題に入っているので、筒城宮についての記載はあまりない。 第26代継体天皇は新王朝の始祖となったが、 これは第25代武烈天皇に後継者がなかったために越から迎え入れられたからである。 「謎の豪族・蘇我氏」のところで紹介したが、継体天皇の大和入りには大伴氏、物部氏、馬飼部が貢献し、賛成した蘇我氏は後に政権を掌握することとなる。 継体天皇の大和入りに反対した葛城氏は滅亡した。 継体天皇の遷都を見てみると、筒城宮から樟葉宮の後弟国宮となっているように、物部氏の本拠地に近づいており、20年を要してやっと蘇我氏の本拠地である大和いりを果たした推移がよくわかる さて、継体天皇は第24代仁賢天皇の皇女・手白香皇女を妃に迎え、第29代欽明天皇を設け、この頃から蘇我氏と連携して大和王朝に大きく貢献した。
同志社大学田辺キャンパス構内にある筒城宮址であるから、もちろん正門で入門許可をとって中へ入った。 駐車場に車をとめると址はほんの200mほどの距離ではあるが、警備の方に案内してもらった。 警備員の多さとその親切さにはいささか驚いた。 また途中には学生食堂があり、中に入ってうどんでも食べたい気分であったが、それは遠慮した。 理工学部、法学部、経済学部など多くの学部があって巨大なキャンパスとレンガを貼りつめた建物が周囲の紅葉とマッチしていて、ほんとうに美しい。 色々な表情を見せる学生を見ていると、私も学生気分に戻ったようで、大変楽しかった。
考古学者・森浩一先生の著書 「京都の歴史を足元から探る 丹後・丹波・乙訓の巻」 で 第一章に紹介されている”弟国”は継体天王が宮を開いた場所であるが、その正確な場所はわかっておらず、現在の乙訓寺のあたりと云われている。 光明寺の紅葉を楽しんだあとは、継体天皇が大和の豪族からの反対に合いながら宮を造った地を巡ることに終始した。 詳しくは追って紹介する。 というのも地図を調べながらとんでもないものを見つけてしまったので、そちらから紹介しようと思うからである。 それは奈良時代に藤原氏の政権を奪還して左大臣にまで上り詰めた橘諸兄の邸宅跡。 歴史の散策をしていて思わぬ遺跡を見つけたときは少なからず感激する。
橘諸兄は、 県犬養(橘)三千代と美努王との間に生まれた。橘諸兄の元の名は葛城王といい、葛城氏の本拠地で育ったと思われる。 聖武天皇の妃・光明皇后とは兄妹ということになる。 藤原不比等の四兄弟が737年に続いて死亡したことにより左大臣となった。その人柄は温厚で人望高く、かの有名な吉備真備や玄坊を重用して政界を握ったお方である。 しかし、最後には藤原仲麻呂に政権を奪われて失脚する。 奈良時代の混乱期に74歳の長寿を全うした諸兄の邸跡は継体天皇が大和入りをした筒城の近辺 山背国・井出にありました。 当時、井出左大臣とも言われたゆえんはここにあります。
見事な竹林に包まれた橘諸兄邸跡で暫くの間佇んでいました
聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子と文武帝との間に生まれた生粋の藤原一族である。しかも不比等と橘三千代との子・安宿姫(後の光明皇后)を正妃に持ち揺るぎ無い藤原氏の一員である。 729年、政敵・長屋王(高市皇子の子で天武の孫)を滅ぼし一族の繁栄を謳歌していたが、737年天然痘が蔓延し藤原四兄弟が揃って死亡したところから、藤原氏に代わって橘諸兄が台頭し左大臣まで登りつめた。 東大寺発願が四兄弟死亡の6年後であり、反藤原氏の意図であったことは重要な意味を持つ。 東大寺の隣には藤原の氏寺・興福寺があるが、これへの挑戦のようでもある。 藤原氏の傀儡でもあった天皇が、藤原権力と戦う意図があったようにも思えるのである。 藤原氏の祖ともいえる鎌足の意思を受け継いだ藤原不比等は持統天皇の息子・草壁皇子、その息子・軽皇子(後の文武天皇)、その息子・首皇子と関わり、天皇系を牛耳ることにより藤原氏の権力を固めていった。 平城京遷都の710年には大和朝廷の実権をほぼ手中にした。 時の天皇は不比等の傀儡の元明天皇(持統天皇の妹・阿閉皇女)である。720年に不比等が死ぬと、息子の武智麻呂、房前が独裁政権を執るが、この時立ちはだかったのが高市皇子の息子・長屋王で、右大臣になっていた。 首皇子即位をまじかに控えて、首皇子の母・宮子の尊称問題(大夫人)で意義を申し立てた長屋王に面子を潰された藤原一族は、呪詛の疑いで長屋王を自殺に追い込んだ。 祝杯を挙げたのも束の間、737年に疫病で藤原四兄弟が死ぬと、橘諸兄は僧玄坊、吉備真備とともに藤原氏を蹴落としていく。 このときに起きたのが藤原広嗣(宇合の子)の叛乱である。広嗣は処刑され、不比等の諸領土は全て朝廷に返上となった。 橘諸兄は県犬養宿三千代と美努王の子で、彼にとって不比等は母を寝取られた宿敵である。 ここに藤原氏への復讐が達成されたとも思えるのである。(744年頃) そして橘諸兄に傾注する聖武天皇は度重なる流浪遷都、東大寺の建立を繰り広げる。
藤原不比等の娘・光明子は仲麻呂とともに藤原政権を立て直したが、結果、夫・聖武天皇を裏切ったことになる。 見事に裏で聖武天皇を操った光明子は高僧・玄坊との醜聞、権力の女という一面のほか、悲田院・施薬院を創設し貧困の人々を救ったという一面もある。 これは懺悔の表れであり、法隆寺の夢殿を作ったとされる光明子の祖先の懺悔の表れと同じかもしれない。 藤原の祖・鎌足や不比等の陰謀を見、長屋王の変の祟りで藤原四兄弟が亡くなり、安積親王の変死が聖武天皇に影響されるかもしれないと怯えた光明子が、貧困の民衆を救おうとした懺悔はある意味当然のことであると思われる。 光明子は正倉院に直筆の「楽穀論」を残しているが、その書体は男勝りで強烈な個性を持っているというが、通称法華寺(法華滅罪寺)を考えると本質が伺える。 法華寺は藤原不比等の館を光明子が寺にしたもので、平城京の拠点ともいえるこの場所を滅罪の場所に選んだ。 光明子の受難と悔悟は藤原四兄弟の滅亡に端を発している。 4兄弟の死は平城京を震撼させたが、それは長屋王の祟りであり、藤原武智麻呂にも祟りの被害が及んだというから、滅罪寺の建立のきっかけとなったはずである。 こうして反藤原派の女人となっていった。 原因は藤原四兄弟の死だけではなく、 聖武天皇の母・宮子が大きく影響している。 宮子は聖武天皇を産むと、藤原不比等の邸に幽閉され親子は37年間会えなかった。 不比等のやり方に疑問を持った光明子は、僧・玄坊と宮子を自分の邸に呼び、宮子が憂鬱の呪縛から解けた。 光明子は姉の宮子の悲運を見るにつけ、また藤原に操られた聖武天皇を思うにつけて、自ら藤原の娘であることから開放され、夫と姉の真の幸福を願った結果が宮子事件であった。
この時俄かに暗躍していたのが藤原武智麻呂の子・仲麻呂である。聖武天皇の唯一の皇子安積親王が若くして急死したのは仲麻呂の毒殺とも言われている。 長屋王の祟りを怯えるかのように不可解な行動をとる朝廷側に対して非難材料に事欠かなかった仲麻呂に対して、聖武天皇は阿部内親王に譲位するという自分の非を認めるかのような行動にでたのが749年である。 この後仲麻呂の兄・豊成が右大臣となり、仲麻呂とともに、橘諸兄を包囲し徐々に追い詰めていくのである。 755年には諸兄の子・奈良麻呂が朝廷に反旗を翻し、そして聖武天皇が崩御する直前の756年、諸兄は左大臣の職を投げ出し敗北した。 聖武天皇が王位を譲り、娘の孝謙天皇が即位すると、光明子は藤原仲麻呂に利用されていく。 藤原仲麻呂は光明皇太后の紫微中台という立場を利用して私的な政治を行うのである。 756年の聖武天皇の崩御後、遺愛の宝物が正倉院に納められると天皇御印が仲麻呂の手に渡り、翌年橘諸兄死去、奈良麻呂の叛乱、大炊王の即位と進み、 仲麻呂は頂点を極めたのであるが、 奈良麻呂の叛乱では430人もの死刑・流罪者を出し、諸豪族の恨みは仲麻呂に集中することになる。 また、藤原一族からも仲麻呂の突出に反感を買うこととなり、ついには孤立していくのである。 そしてついに、764年吉備真備が都から呼ばれ、造東大寺長官に任命されると、恵美勝押討伐軍に参加し、恵美勝押こと藤原仲麻呂は近江西にて討たれることとなる。 乱後吉備真備は称徳天皇のもとで右大臣にまで登りつめ、称徳天皇崩御後まで長きに渡って大きな戦を行うこともなく世の中の平定に勤めた。
天武天皇631-686 軽皇子(42代文武天皇) 683-707
┣ 草壁皇子662-689 ━┛ ┃
持統天皇41代645-703 ┃
蘇我娼子娘 ┃
┣武智麻呂(南家)680-737 ┃
┃ ┣ 豊成704-765 ┃
┃ ┃ ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信
┃ ┃ -796 -808 ┃
┃ ┣ 乙麻呂 ┃
┃ ┃ ┗是公 ┃
┃ ┃ ┗ 吉子,雄友┃
┃ ┃ 大伴犬養娘-764 ┃ 多治比真宗769-813
┃ ┃ ┣ 刷雄?-? ┃ ┃是公娘・吉子 -807
┃ ┣ 仲麻呂706-764 ┃後に恵美押勝 ┃┣ 伊予親王
┃ 貞姫 ┣ 真従,真先 ┃ ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
┃ 房前娘・袁比良女┃ ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
┣房前(北家)681-737 ┃元正の内臣 ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)
┃ ┣ 永手714-771 ┃ 和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)
┃ ┣ 魚名-783 ┃ ┣山部王(桓武天皇)737-806
┃ ┣ 真盾━内麻呂 ┃右大臣 ┃ ┃
┃ ┗ 鳥養 ┗ 冬嗣 ┃ ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
┃ ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察 ┃百川娘・旅子 759-788
┃ ┗葛野麻呂 ┃-818 ┃
┣宇合ウマカイ(式家)694-737 ┃ ┃
┃ ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃ ┃
┃ ┣ 良継 白壁王支持 ┃ ┣ 早良親王(大伴家持派)
┃ ┃ ┣ 乙牟漏 ┃ 白壁王(49光仁天皇)709-781
┃ ┃ 阿部古美奈 ┃ ┣ 他部親王
┃ ┣ 百川 道鏡追放 ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)
┃ ┃ ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃ ┃ ┗朝原内親王779-817(平城妃)
┃ ┃ ┗ 旅子 ┃ ┣ 井上内親王717-775
┃ ┗ 清成 ┃ ┣ 不破内親王
┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃ ┣ 氷上川継782の謀反
┃ ┃ ┣ 薬子-810 ┃ ┃ 塩焼王 大伴家持 坂上苅田麻呂
┃ ┃ ┗ 仲成 ┃ ┃
┃ ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃
┃五百重(天武夫人) ┃ ┣ 安積親王728-744
┃┣麻呂(京家)695-737 ┃ ┃
┃┃ ┗浜成流罪で京家没┃ ┃ 701-756
┃┃ 賀茂比売 ┣首皇子(45代聖武天皇)
┃┃ ┣ 藤原宮子-754 ━┛ ┣ 基皇太子727-728
┃┃ ┣ 長娥子(長屋王妾) ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
藤原不比等 659-720 ┃ 吉備真備 玄坊 行基を重用
┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733
┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
┃ ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757
┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737
┣ 牟漏女王
美努王
栗隅王┛
大俣王┛
難波皇子┛
紅葉の最盛期に入った11月中旬ですが、光明寺はまだまだこれから、というところでしょう。
寺院様式でいう方丈という建物にはかならず中庭があります。ここ光明寺でも中庭があり、
竜安寺などとくらべると見劣りはしますが、ほんのひととき心を休めるには最適です。
そして、帰りは楽しみにしていた紅葉参道。 紅葉のトンネルにはまだ早かったのですが
誰もいない、静寂につつまれた”緑葉参道”は見事でした。
法然上人は24歳で比叡山を降りると、「だれもが等しく救われる教え」を求めて諸国行脚を続けます。 1175年、「だれもが等しく救われるにはお念仏に依るしかない」と悟り、光明寺の建つ粟生の里で専修念仏の教えを説きます。 光明寺にある「法然上人立教開宗の像」は、そのときの法然上人の姿を現しているという。 光明寺には32棟の建物があり、まかでも最も大きく中心となる建物が御影堂であり、通常の寺院様式では本堂に相当する。
考古学者で同志社大学名誉教授の森浩一先生(現在82歳)が命を削って纏めた最終章 「京都の歴史を足元から探る 丹後・丹波・乙訓の巻」 を早速購入した。 森先生は学生の頃から古墳の発掘調査など多くの遺跡を調査し、考古学を提唱してきた御仁である。 第一章は”弟国”からはじまるのであるが、それは何故か、そして弟国の歴史的な重要性について書かれている。 まだこの本の第一章すら読んでいないのであるが、11月13日はそろそろ紅葉の最盛期に突入する頃であるので、早速”弟国”に関係のある京都ということで光明寺に行ってみた。 京都の光明寺といえば、黒谷さんで親しまれている金戒光明寺が有名ですが、ここは長岡京にも程近く、紅葉のメッカとしても有名な光明寺です
1198年、法然上人の弟子・熊谷次郎直実の開基とされている光明寺の総門を入ると道が二手に分かれていて、左手の道は通称「紅葉参道」、右手の総門正面から本堂に向かっている坂道を表参道という。 表参道は通称「女人坂」というゆるやかな坂道には、信者の方々が運んできた綺麗な小石が敷き詰められていて、長い坂でありながら女性でも歩きやすくなっている。 誰もいない女人坂をこの季節にひとりじめして撮影できたのは幸運でした。