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日下部といえば市辺王の舎人

2010年11月29日 | 大和王朝期

 万葉集の第一首を詠んだ雄略天皇は天皇候補としてのライバルであった市辺王を謀殺した。 市辺王は履中天皇の皇子、雄略天皇は履中の弟・允恭天皇の皇子である。 市辺王は市辺押磐皇子ともいい、播磨国風土記では市辺天皇命とあるから世間では天皇扱いをしていたようである。 市辺王は近江の蚊屋野へ狩りに誘われて謀殺されたあと、二人の皇子も身の危険をおぼえて大和から脱出することとなる。 二人の皇子はオケ王(後の仁賢天皇)とヲケ王(後の顕宗天皇)である。 二人は大和から淀川の樟葉(玖須婆)で河を渡り、丹波を通って余社郡に行って難を逃れた。 このときに二人のお伴をしたのが余社郡の豪族であり舎人の日下部連使主と子の吾田彦である。 つまり大和北部が彦坐王、狭穂彦以来、丹波と深い関係を持っていた証拠でもある。 日下部連使主、つまり日下部氏は謎に満ちた氏族とされ、日下部首(日下部連とは同じ祖先伝承) の祖は水江浦嶋子といい、浦島太郎伝説で知られる。

  日下部連使主と子の吾田彦は二皇子を余社郡から播磨国の赤石郡の縮見へ移した。 どういう理由があったのか、ここで日下部連使主は自殺をし(全ての証拠を隠匿するために自らの命をも絶ったとも、老齢の自分が足手まといになることを恐れて首を吊ったとも言われている)、子の吾田彦は後々まで二皇子に仕えたことは日本書紀に記載ある。 二皇子が縮見屯倉をあずかる忍海部細目の家で身分を隠して牛馬を飼う牧として働いていた。 しかしその家に新室を祝う宴があったときに、二皇子も踊りや歌を披露したところ、その振る舞いに品があったことなどで、播磨国司をしていた伊予来目部小楯が二皇子であることを見抜いた。 これを市辺王と同母妹の飯豊青皇女に報告し、天皇として迎え入れられたという。 このとき縮見の里の高野宮にいた二皇子は山部小楯を使として賀毛の国造許麻の娘・根日女に求婚した。 ところが二皇子はお互いに譲り合って結婚には至らず、根日女は死んでしまったという。 そこで二皇子は小楯に命じて「朝日夕日の隠れぬ地に墓を造り、その骨を納め、玉をもって墓を飾れ」墓を造らせた。 これが玉丘で、その村を玉野というようになった。

                                             日本書紀での縮見は現在 志染という地名になって存在します

     

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