半年振りの讃岐うどん巡りのあと塩入温泉のロッジへ
長屋王は不安定な平城京前期の時代に左大臣に抜擢され、謀反の罪によって服毒自殺に追い込まれた悲劇の人である。 当時、藤原不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男の房前は参議であったから、後に藤原氏の陰謀によって起こる長屋王の変は必然的でもあった。 聖武天皇と光明皇后との間に待望の男子が生まれたのは727年11月のことである。 生後一ヶ月で基皇子が皇太子に立てられるという異例の処置からも後継者としての期待が伺える。 しかし病気により728年10月に逝去したのである。 この事態を藤原氏は見逃さなかった。 基皇子の死は長屋王の呪詛によるものだという噂が流れたのである。 729年2月、藤原宇合率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を取り巻くと、長屋王は服毒自殺したのである。 長屋王一族に皇位継承の権利があったことも藤原氏にとっては排除すべき事柄であったに違いない。 それから数年後の737年、なんと不比等の息子4人が天然痘に倒れて死去したのだから、長屋王の祟りと恐れられたのも無理はない。 この長屋王の邸宅は平城京の南東部にあります。
向うに見えるのは東院庭園、この南に長屋王の邸宅がある。 近鉄奈良線は平城京を横断しています
平城宮の南東隣接部の一等地で1987年に木簡が発見され、「長屋皇宮」の文字が浮かび上がった。 翌1988年には掘削予定ではなかった住宅地の端で土に埋まった木簡が発見されたが、それは約3万5千点に達するものであった。 当時、紙は貴重なものであったから、荷札、メモ等々は木簡といわれる木の札に記載されたのであるが、発掘現場が長屋王の住居であったという決定的な証拠となったのは「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれた木簡である。 これは宮廷の音楽を担当する雅楽寮から長屋王の家政機関の長官に宛てたものであるが、家政機関(家令)というのは親王及び職事のうち三位以上の諸王・諸臣に対して国から与えられた家政担当の組織である。 雅楽寮が発掘現場であるはずはないことから、現場が長屋王の邸宅ということになった。 長屋王の家令の名は赤染豊嶋、年齢60歳であった。 壬申の乱の時に高市皇子の従者として活躍した赤染徳足の息子が赤染豊嶋である可能性は高く、高市皇子没後に息子・豊嶋が長屋王に仕えることになったと考えられる。
長屋親王宮鮑大贄十編 雅楽寮移長屋王家令所
祖母が九州の豪族・胸形氏の出身であったために天武の第一皇子であったが皇位に就くことはできなかったが、母は天智天皇の娘・御名部皇女で元明天皇の異母姉にあたる。 正妻は元明と草壁皇子の娘・吉備内親王で膳夫王、葛木王、鉤取王らの息子がいる。 吉備内親王との結婚は703年頃で、704年に初めて歴史に登場する。 そのときの叙位は正四位上であり29歳にしては異例に遅い。 これは皇位継承資格者としての長屋王の台頭を危険視したためと考えられる。 704年の叙位により長屋王は皇位継承候補者から外され、官人として歩むことになる。709年には従三位に叙せられ翌年、宮内卿から式部卿になり718年に大納言に任ぜられ天武の子世代の親王に匹敵する待遇を与えられた。 715年に吉備内親王所生の子を皇孫扱いするということは長屋王を親王扱いすることを意味する。 木簡に「長屋親王」と記されていたことは周知の事実であったのである。
長屋王の邸宅三条二坊の四坪の敷地の内郭中央の居住空間には正殿と脇殿が建ち、天皇の居住空間に匹敵する格式を窺わせる。内郭の西宮には吉備内親王が住み、邸宅の北半分には家政機関や使用人の居住空間になっている。 また、木簡から邸宅に集まるさまざまな物資を見ることが出来る。 各地からの封戸は90にも及び摂津の塩漬け鯵、伊豆の荒鰹、武蔵野国の菱の実、美濃の塩漬け鮎、越前の栗、阿波の猪、紀伊・讃岐の鯛、など全国から珍味が送られてきている。 また、高市皇子の実家である母・尼子娘かたからのものもあり結びつきが長屋王の代になっても保たれていたことが窺える。
各地からの贈り物荷札の木簡
御取鰒(あわび)五十烈 伊雑郷近代鮨 賀吉鰒廿六貝
これらの木簡から、石川夫人や安倍大刀自らの側室にも支給されていたのであるが、藤原不比等の娘・長蛾子夫人の名は全く見られないことから実家である不比等邸宅に暮らしていたものと思われる。 長屋王の多くの子供達の名も木簡に登場し、後に異例の昇進をする竹野女王(不比等の嫡男・武智麻呂の妻となる)が長屋王の妹とみられ長屋王の庇護の下にあったことがわかる。
長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡
竹野皇子二取米三升○余女 竹野王子進米一升大津/甥万呂/ 竹野王子御所進粥米二升受老
安宿王(長屋王と妾長蛾子との息子)への贈答札の木簡
北門○安宿戸○依網津○播磨○賀毛 北門○/安宿/額田∥○/紀伊/檜前
710年から717年にわたる長屋王一家の豪奢な生活ぶりはこの木簡で明らかになったが、このとき長屋王はまだ大納言にもなっていなかったが、親王としての格別の立場を物語っている。 1.4平方kmにも及ぶ平城宮跡は710-784までの間古代国家の中枢として機能した場所で、長屋王邸宅は二条大通に面した一等地にある。
当時藤原不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男の房前は参議であったから、後に藤原氏の陰謀によって起こる長屋王の変は必然的でもあった。 聖武天皇と光明皇后との間に待望の男子が生まれたのは727年11月のことである。 生後一ヶ月で基皇子が皇太子に立てられるという異例の処置からも後継者としての期待が伺える。 しかし病気により728年10月に逝去したのである。 この事態を藤原氏は見逃さなかった。 基皇子の死は長屋王の呪詛によるものだという噂が流れたのである。 729年2月、藤原宇合率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を取り巻くと、長屋王は服毒自殺したのである。 長屋王一族に皇位継承の権利があったことも藤原氏にとっては排除すべき事柄であったに違いない。 それから数年後の737年、なんと不比等の息子4人が天然痘に倒れて死去したのだから、長屋王の祟りと恐れられたのも無理はない。 この間、724年に在位した聖武天皇は遷都を繰り返すのであるが、理由は自分に徳がないことへの自戒である。
従って715年に完成した第一次大極殿は、741年に恭仁京、743年に紫香楽宮、744年に難波宮へと変遷し、745年にやっともとの平城京に戻ってきた。 そして第二次大極殿が建てられて北側の内裏とともに機能することとなる。 現在東西46m、南北24mの基壇が復元され、南側には朝堂院、朝集殿院、そして壬生門の基壇を一望することができます。
この通りの北側に内裏、南側に第二次大極殿跡がある 第二次大極殿跡
第二次大極殿の周りには築地回廊があったという
平城京前期(715年の大極殿完成から740年の恭仁京遷都まで)に政治・儀式の場であった第一大極殿の内部に入ると朱塗りの柱や支輪板、身舎天井板と云われる天井部分の朱塗り木組みとと彩色画を見ることができます。 上部壁面には奈良在住の日本画家・上村淳之氏制作の神獣「四神」と 「十二支」の壁画が描かれています。 もちろん東面に青龍、西面に白虎、南面に朱雀、北面には玄武が配置されて描かれ、 京都の町を守る四神、高松塚古墳やキトラ古墳の石室壁にみられる壁画と同じです。
北の玄武 (足の長い亀に蛇が巻き付いたような獣) 南の朱雀(翼を広げた鳳凰のような獣鳥)
東の青龍(長く舌を出した竜) 西の白虎(細長い体をした白い虎)
因みに京都の四神を象徴するものとして北には高山(舟岡山)、南には沢畔(巨椋池)、東には流水(鴨川)、西には街道(山陰道)があります。 中央には天皇が着座した玉座・高御座が据えられています。 王の椅子のことを「王座」といいますが、「玉座」はさらに上位(皇帝や神)の椅子を指す言葉として使い分けられるようです。 古代から玉座は王位継承者が即位した時の戴冠式や君主が他の者に対して地位を誇示するために使用されていたもので、「玉」が高価なものとされていた古代中国で、高い地位の者が玉で作られた椅子を使用したことが語源である。 ところでこの玉座、第45代聖武天皇はもちろんですが、第44代元正天皇と第43代元明天皇も座っています。 平城京といえば、正倉院展などでもお馴染みの聖武天皇の都ですが、 実は平城京の建設を夢見たのは第41代持統天皇なのです。 藤原氏の繁栄をもたらした藤原不比等とともに歩んだ持統女帝は、長安の都を夢見て阿閉皇女(後の元明天皇)とともに平城の地の下見を行い、建設の先駆者として活動しますが、715年の完成を見ずに703年に崩御します。 元明天皇の子・軽皇子も天武天皇として即位したものの若くして707年に崩御し、そのとき文武の子・首皇子(後の聖武天皇)も6歳であったことから、中継ぎ役として元明の子・氷高皇女が即位して元正天皇となります。 従って、第二次大極殿の玉座に座ったのは元明・元正・聖武の3人の天皇ということになります。
元明・元正・聖武の3人の天皇が坐った玉座 高御座上部には鳳凰が形どられている
そして大極殿の屋根の両端には魔除けの飾りの一種である鴟尾(しび)が配置されていますが、この原寸大模型(高さ約2m)も展示されていました。 名古屋で見られる鯱(シャチホコ)も屋根の両端に飾られた魔除けの飾りですが、これは鴟尾が唐末期の時代に変形したものです。 またこの大極殿の建築に使われた種々の建築材料(柱材、瓦、飾り金具など)なども展示されていました。
奈良遷都1300年に当たる2010年に合わせて、平城宮跡に実物大で復元されたのが第一次大極殿である。 その計画は9ヶ年にもおよび、第一次大極殿を取り巻く南門・廻廊等についても、復原整備の検討が実は進められているようです。 奈良時代の前半には朱雀門を入った正面に朝堂院の建物が左右対称に配置され、その奥800mのところに大極殿院が位置していました。 その建物は高い基壇に礎石をすえ、丹塗りの赤い柱を建て、屋根に瓦を葺いた壮大な建物であった様子がわかるように復元されています。 第一次大極殿は天皇の即位・朝賀・外国使節の謁見といった行事を行うために建てられたもので、規模は正面約44m、側面約20m、高さ約27mあり、直径70cmの朱色の柱は44本、屋根瓦は約10万枚使われているそうです。 現地に行きますと「平城宮跡会場公式案内MAP」をもらえます。 それを見ますと第一次大極殿の南東部に第二次大極殿が描かれています。 何故第二があるのか。
朱雀門の真北800mのところにある第一次大極殿は平城京前期のもの
710年に平城京ができたときの大極殿を第一次大極殿といい、今回復元されたものです。 藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年12月15日)に聖武天皇によって一時期山背国相楽郡の地、現在の京都府木津川市に大極殿は移されており、この都が恭仁京です。 左大臣・橘諸兄の本拠地が相楽郡にあったことが遷都の理由とされており、聖武天皇の放浪の苦悩がこうして始まります。 都は完成しないまま743年に造営は中止され、聖武天皇は紫香楽宮に移ります。 742年頃に離宮を造営してしばしば行幸し場所です。天皇は恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたとみられています。
わずかに2年間、山背相楽郡の恭仁京に大極殿は移設された
ところが744年2月には難波京(726年、聖武天皇が藤原宇合に命じ、難波宮に瓦葺の離宮を造営していた)に遷都が実施されます。 発掘調査によれば、難波宮周辺には正方位に溝が広い範囲で多数検出されており、建物跡も正方位に築かれたものが多い。 また、溝からは多数の土器が出土しており相当数の人間が生活していたことが想定されている。 そして遷都の翌年745年5月に都は平城京に戻された。 因みに、難波宮は大阪城の南に隣接していて現在は快適に遊べる公園になっています。 したがって唐からの遣唐使の船団が大阪湾から淀川を経由して支流・大川を通って難波宮近辺を港にしていたことが伺えます。 745年に都が難波宮から再び平城宮に戻された後も、副都として遣唐使船の港として栄えます。 しかし784年に長岡京遷都が行われたときに廃都となります。 このころの難波宮のことを後期難波宮といいますが、それに対して前期難波宮というのは大化の改新のときに即位した孝徳天皇が政務をとった宮(難波長柄豊崎宮)のことをいい652年に完成します。
天平文化が栄える一方で、度重なる遷都により民は苦しめられていた
こうした悪政に立ち向かったのが吉備真備や僧侶・行基である
740年の恭仁京遷都までの大極殿を第一次大極殿といい、745年奈良に再び都が戻ってからの大極殿を第二次大極殿といいます。 第二次大極殿は平城宮東寄りの壬生門北に位置し、第一次大極殿の周囲は築地回廊で囲まれ、この区域は「大極殿院」と呼ばれるそうです。 元正天皇や聖武天皇の即位式が行われたのはこの大極殿院である。 奈良時代の後半には儀式は壬生門北の第二次大極殿で行われ、内裏、朝堂院、朝集殿なども壬生門と第二次大極殿との間に集約されていったのです。 壬生門、築地回廊などの説明は次に譲ります。
元明天皇の710年、ここ奈良に都が移されて唐の長安に習った平城京が完成した。 実はこの平城京は藤原不比等と持統天皇が幾度も下見を重ねて完成した夢の都でした。 完成した710年には持統天皇も次の文武天皇もすでに崩御していました。 今年は遷都1300年祭が華々しく開かれ、訪れる人々は、 現在も当時のまま残されている平城京の広大さには驚くばかりのことでしょう。 しかし聖武天皇にとってはその雄大さとは裏腹に苦難の時期の連続でした。 藤原不比等亡き後(720年)南家の武智麻呂などの藤原4兄弟に受け継がれますが、天皇家最高血統の長屋王が右大臣となり政権を握ります。 藤原氏念願であった聖武天皇に基皇子が誕生(727年)するとすぐに皇太子となるが、1歳で死去(728年)、これにより長屋王が皇太子呪詛という謀反の嫌疑をかけられて服毒自殺(728年)、これにより朝廷勢力は藤原氏の思うままになります。 ところが、九州から全国に広がった天然痘により藤原4兄弟は相次いで死去(737年)したことから、橘諸兄の政権となり、吉備真備や玄坊を重用します。 これに批判し対抗しようとして、藤原宇合の子・広嗣は乱を起こします(740年)。 そして藤原氏の謀略と云われる安積親王の変死(744年)、これにより孝謙天皇が即位(749年)すると藤原仲麻呂が政権を牛耳ることとなり、諸兄の長男・奈良麻呂などによるのクーデターが勃発(757年)するが、仲麻呂に制圧されて430人余りの犠牲者をだします。 聖武天皇崩御は756年ですから、いかに気の休まることがなかったかが伺えます。 しばらくは、蘇我氏の話を中断して平城京の時代の様子を遷都1300年祭にからめて紹介したいと思います。
朱雀門前はいつもとは違って華やかに飾られています
聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子と文武帝との間に生まれた生粋の藤原一族である。しかも不比等と橘三千代との子・安宿姫(後の光明皇后)を正妃に持ち揺るぎ無い藤原氏の一員である。 729年、政敵・長屋王(高市皇子の子で天武の孫)を滅ぼし一族の繁栄を謳歌していたが、737年天然痘が蔓延し藤原四兄弟が揃って死亡したところから、藤原氏に代わって橘諸兄が台頭し左大臣まで登りつめた。 東大寺発願が四兄弟死亡の6年後であり、反藤原氏の意図であったことは重要な意味を持つ。 東大寺の隣には藤原の氏寺・興福寺があるが、これへの挑戦のようでもある。 藤原氏の傀儡でもあった天皇が、藤原権力と戦う意図があったようにも思えるのである。 藤原氏の祖ともいえる鎌足の意思を受け継いだ藤原不比等は持統天皇の息子・草壁皇子、その息子・軽皇子(後の文武天皇)、その息子・首皇子と関わり、天皇系を牛耳ることにより藤原氏の権力を固めていった。 平城京遷都の710年には大和朝廷の実権をほぼ手中にした。 時の天皇は不比等の傀儡の元明天皇(持統天皇の妹・阿閉皇女)である。720年に不比等が死ぬと、息子の武智麻呂、房前が独裁政権を執るが、この時立ちはだかったのが高市皇子の息子・長屋王で、右大臣になっていた。 首皇子即位をまじかに控えて、首皇子の母・宮子の尊称問題(大夫人)で意義を申し立てた長屋王に面子を潰された藤原一族は、呪詛の疑いで長屋王を自殺に追い込んだ。 祝杯を挙げたのも束の間、737年に疫病で藤原四兄弟が死ぬと、橘諸兄は僧玄坊、吉備真備とともに藤原氏を蹴落としていく。 このときに起きたのが藤原広嗣(宇合の子)の叛乱である。広嗣は処刑され、不比等の諸領土は全て朝廷に返上となった。 橘諸兄は県犬養宿三千代と美努王の子で、彼にとって不比等は母を寝取られた宿敵である。 ここに藤原氏への復讐が達成されたとも思えるのである。(744年頃) そして橘諸兄に傾注する聖武天皇は度重なる流浪遷都、東大寺の建立を繰り広げる。
藤原不比等の娘・光明子は仲麻呂とともに藤原政権を立て直したが、結果、夫・聖武天皇を裏切ったことになる。 見事に裏で聖武天皇を操った光明子は高僧・玄坊との醜聞、権力の女という一面のほか、悲田院・施薬院を創設し貧困の人々を救ったという一面もある。 これは懺悔の表れであり、法隆寺の夢殿を作ったとされる光明子の祖先の懺悔の表れと同じかもしれない。 藤原の祖・鎌足や不比等の陰謀を見、長屋王の変の祟りで藤原四兄弟が亡くなり、安積親王の変死が聖武天皇に影響されるかもしれないと怯えた光明子が、貧困の民衆を救おうとした懺悔はある意味当然のことであると思われる。 光明子は正倉院に直筆の「楽穀論」を残しているが、その書体は男勝りで強烈な個性を持っているというが、通称法華寺(法華滅罪寺)を考えると本質が伺える。 法華寺は藤原不比等の館を光明子が寺にしたもので、平城京の拠点ともいえるこの場所を滅罪の場所に選んだ。 光明子の受難と悔悟は藤原四兄弟の滅亡に端を発している。 4兄弟の死は平城京を震撼させたが、それは長屋王の祟りであり、藤原武智麻呂にも祟りの被害が及んだというから、滅罪寺の建立のきっかけとなったはずである。 こうして反藤原派の女人となっていった。 原因は藤原四兄弟の死だけではなく、 聖武天皇の母・宮子が大きく影響している。 宮子は聖武天皇を産むと、藤原不比等の邸に幽閉され親子は37年間会えなかった。 不比等のやり方に疑問を持った光明子は、僧・玄坊と宮子を自分の邸に呼び、宮子が憂鬱の呪縛から解けた。 光明子は姉の宮子の悲運を見るにつけ、また藤原に操られた聖武天皇を思うにつけて、自ら藤原の娘であることから開放され、夫と姉の真の幸福を願った結果が宮子事件であった。
この時俄かに暗躍していたのが藤原武智麻呂の子・仲麻呂である。聖武天皇の唯一の皇子安積親王が若くして急死したのは仲麻呂の毒殺とも言われている。 長屋王の祟りを怯えるかのように不可解な行動をとる朝廷側に対して非難材料に事欠かなかった仲麻呂に対して、聖武天皇は阿部内親王に譲位するという自分の非を認めるかのような行動にでたのが749年である。 この後仲麻呂の兄・豊成が右大臣となり、仲麻呂とともに、橘諸兄を包囲し徐々に追い詰めていくのである。 755年には諸兄の子・奈良麻呂が朝廷に反旗を翻し、そして聖武天皇が崩御する直前の756年、諸兄は左大臣の職を投げ出し敗北した。 聖武天皇が王位を譲り、娘の孝謙天皇が即位すると、光明子は藤原仲麻呂に利用されていく。 藤原仲麻呂は光明皇太后の紫微中台という立場を利用して私的な政治を行うのである。 756年の聖武天皇の崩御後、遺愛の宝物が正倉院に納められると天皇御印が仲麻呂の手に渡り、翌年橘諸兄死去、奈良麻呂の叛乱、大炊王の即位と進み、 仲麻呂は頂点を極めたのであるが、 奈良麻呂の叛乱では430人もの死刑・流罪者を出し、諸豪族の恨みは仲麻呂に集中することになる。 また、藤原一族からも仲麻呂の突出に反感を買うこととなり、ついには孤立していくのである。 そしてついに、764年吉備真備が都から呼ばれ、造東大寺長官に任命されると、恵美勝押討伐軍に参加し、恵美勝押こと藤原仲麻呂は近江西にて討たれることとなる。 乱後吉備真備は称徳天皇のもとで右大臣にまで登りつめ、称徳天皇崩御後まで長きに渡って大きな戦を行うこともなく世の中の平定に勤めた。
天武天皇631-686 軽皇子(42代文武天皇) 683-707
┣ 草壁皇子662-689 ━┛ ┃
持統天皇41代645-703 ┃
蘇我娼子娘 ┃
┣武智麻呂(南家)680-737 ┃
┃ ┣ 豊成704-765 ┃
┃ ┃ ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信
┃ ┃ -796 -808 ┃
┃ ┣ 乙麻呂 ┃
┃ ┃ ┗是公 ┃
┃ ┃ ┗ 吉子,雄友┃
┃ ┃ 大伴犬養娘-764 ┃ 多治比真宗769-813
┃ ┃ ┣ 刷雄?-? ┃ ┃是公娘・吉子 -807
┃ ┣ 仲麻呂706-764 ┃後に恵美押勝 ┃┣ 伊予親王
┃ 貞姫 ┣ 真従,真先 ┃ ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
┃ 房前娘・袁比良女┃ ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
┣房前(北家)681-737 ┃元正の内臣 ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)
┃ ┣ 永手714-771 ┃ 和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)
┃ ┣ 魚名-783 ┃ ┣山部王(桓武天皇)737-806
┃ ┣ 真盾━内麻呂 ┃右大臣 ┃ ┃
┃ ┗ 鳥養 ┗ 冬嗣 ┃ ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
┃ ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察 ┃百川娘・旅子 759-788
┃ ┗葛野麻呂 ┃-818 ┃
┣宇合ウマカイ(式家)694-737 ┃ ┃
┃ ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃ ┃
┃ ┣ 良継 白壁王支持 ┃ ┣ 早良親王(大伴家持派)
┃ ┃ ┣ 乙牟漏 ┃ 白壁王(49光仁天皇)709-781
┃ ┃ 阿部古美奈 ┃ ┣ 他部親王
┃ ┣ 百川 道鏡追放 ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)
┃ ┃ ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃ ┃ ┗朝原内親王779-817(平城妃)
┃ ┃ ┗ 旅子 ┃ ┣ 井上内親王717-775
┃ ┗ 清成 ┃ ┣ 不破内親王
┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃ ┣ 氷上川継782の謀反
┃ ┃ ┣ 薬子-810 ┃ ┃ 塩焼王 大伴家持 坂上苅田麻呂
┃ ┃ ┗ 仲成 ┃ ┃
┃ ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃
┃五百重(天武夫人) ┃ ┣ 安積親王728-744
┃┣麻呂(京家)695-737 ┃ ┃
┃┃ ┗浜成流罪で京家没┃ ┃ 701-756
┃┃ 賀茂比売 ┣首皇子(45代聖武天皇)
┃┃ ┣ 藤原宮子-754 ━┛ ┣ 基皇太子727-728
┃┃ ┣ 長娥子(長屋王妾) ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
藤原不比等 659-720 ┃ 吉備真備 玄坊 行基を重用
┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733
┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
┃ ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757
┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737
┣ 牟漏女王
美努王
栗隅王┛
大俣王┛
難波皇子┛
葛城襲津彦は第16代 仁徳天皇の皇后となった磐之媛の父にあたる人物で、 神功皇后5年の頃、朝鮮半島の戦で数々の武勲をあげています。 「日本書紀」によれば、葛城襲津彦は新羅から来ていた人質を送っていき、途中でその人質に逃ら れ、そこで新羅に入って戦い、捕虜を連れて帰還すると、これらの捕虜を葛城の桑原・佐味・高宮・忍海辺 りに住まわせたという。 その付近は巨勢山古墳群と呼ばれており、 700基以上に及ぶ全国屈指の群集墳地域です。 ところで、この宮山古墳の頭頂部へいくと、「王の柩」とされる長持形石棺を竪穴式石室に安置されたままの状態で見ることができる貴重な古墳となっているということを後で知り、石室を見ずに帰ってしまったことが残念です。 時間の都合でこの時は古墳をじっくりめぐることができませんでしたので、また改めて巨勢古墳群を探索してみたいと考えています。 「孝安天皇陵」「日本武尊白鳥陵」 は以前に訪れていますので、極めて珍しい石棺、巨大な石室があるという「條ウル神古墳」などは是非、というところです。