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相川真緒さん

2010年11月03日 | 相川真緒 逢坂なぎさ 蒼井祥子 愛内飛奈 邱愛晨Abbie



















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相川真緒さん

2010年11月03日 | 相川真緒 逢坂なぎさ 蒼井祥子 愛内飛奈 邱愛晨Abbie















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相川真緒さん

2010年11月03日 | 相川真緒 逢坂なぎさ 蒼井祥子 愛内飛奈 邱愛晨Abbie













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石川眞妃さん

2010年11月03日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika

















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平城京・東院庭園

2010年11月03日 | 奈良・飛鳥時代

 平城京の東南の端に位置するのが東院です。東院というのは東宮の意味で、皇太子が暮らした宮のことを言います。平城京が完成した710年には元明天皇が政務に就き、皇太子は9歳の首皇子である。首皇子が聖武天皇として即位したのは724年であるから、15年以上もの長い間、この東院で暮らしたことになる。

  

 701年、不比等が人生を賭けての念願であった大宝律令が施行された。 土台となったのは飛鳥浄御原令である。 この時不比等よりも上の階位は阿倍朝臣御主人ひとりとなった。阿倍朝臣御主人は67歳であるから実質的には不比等を凌ぐ人物はもはやいないのである。しかも階位は下であっても年長の大伴宿禰安麻呂などには丁重な挨拶をし、立てている。 また粟田朝臣真人などの有能な若手官人は引き立てた。 これらにより不比等を慕う人物が増えていった。 そんな不比等に、更なる恵があたえられた。 文武天皇と宮子妃に首皇子が誕生し、三千代には安宿姫が誕生した。 首皇子は後の聖武天皇であり、安宿姫は後に光明皇后といわれた聖武天皇の妃である。不比等の孫が天皇となり、子が皇后となったのであるから、強運の持ち主であることに間違いはない。  文武天皇には寵愛した妃・石川朝臣刀子娘がおり、高円朝臣広世、広成の二皇子を設けていた。 首皇子がもちろん王位継承者であることは間違いないが、皇子がなくなった場合は高円朝臣広成が立太子する。 不比等と三千代は首皇子が場合でもこの兄弟に王位継承権がなくなるように、王籍を剥奪するという工作をしている。徹底した念のいれようである。

 不比等をここまで持ち上げてきた女帝・持統天皇であるが703年崩御された。死の直前に、吉野神の命令であるとして、東国へ旅をしたのであるが、このときの疲れが原因である。 不比等にとって大きな庇護が絶たれた今、首皇子を皇太子とし、安宿姫を妃にする必要があったが、まだ10年はかかる。707年、文武天皇は風邪とも疫病ともつかない高熱に悩まされ、意識のないままに亡くなった。文武天皇が死の直前に、母皇太后に王位継承を遺言したが息子を愛していた阿閉皇太后はショックのあまり閉じ篭るようになり面会できるのは唯一三千代だけであった。 その三千代に説得され、皇太后は王位につく事を決意し、元明天皇が誕生した。即位の翌年、年号は和銅の年は疫病や飢饉が続き、国内は不安定であり、不比等は原因は藤原京にあるのではないかと感じていた。大和三山、葛城山に囲まれた飛鳥は古く、平城の地を新しい藤原氏の都にと考えている。 まさに首皇子と安宿姫のための都である。 708年石上朝臣麻呂は左大臣ではあるが69歳という齢のせいか政治にはあまり口出しはしない。 右大臣不比等は遷都に対しては元明天皇の承諾さえあれば良いと考えていた。気になるのは首皇子の病弱である。 草壁皇子は28歳でなくなり、軽皇子・文武天皇も25歳という短命であった。 これは紛れもなく血族結婚が原因である。首皇子に万が一のことでもあれば、石川朝臣刀子娘の皇子が王位継承の対象となる。 石川朝臣刀子娘、紀朝臣竈門娘の不貞を理由に賓の地位を奪い、皇族から外した三千代の策略は不比等を安堵させた。そして715年首皇子は皇太子となると疲労を理由に皇女・氷高内親王に王位を譲り、中継ぎの新天皇・元正が誕生し、 そして安宿姫は皇太子妃となる。 717年に左大臣・石上朝臣麻呂が亡くなったころ、不比等は養老律令の編纂に取り掛かっている。 その3年後不比等は風邪をこじらせて亡くなった。不比等の意思は藤原四兄弟に受け継がれ、後の藤原氏の繁栄をもたらすことにあるのである。 

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