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継体天皇・弟国宮があったと推測されている寺

2010年11月20日 | 大和王朝期

 518年、継体天皇は筒城宮から弟国宮へ遷宮します。 宮跡の推定地は京都府長岡京市今里付近というから乙訓寺付近とされている。 乙訓は、長岡・向日・大山崎地域を指す地名で、古くは「弟国」と記され、 葛野郡から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」としたことに由来すると考えられている。 ただ、弟国宮に繋がる遺構の発見はなくその正確な場所はわかっておらず、筒城宮や樟葉宮などのように石碑も説明板もない。 乙訓寺は桓武天皇の皇太子・早良親王が幽閉された寺として知られ、 785年、長岡京造営工事の責任者の藤原種継が何者かに射殺され、事件の黒幕として皇太子・早良親王が逮捕されここに幽閉、皇太子は無実を訴え食を断ち餓死し、この怨霊問題が発端となり平安京への遷都に繋がっていくのです。 

 ところで、継体天皇が、筒城宮から弟国宮という大和から遠い地点に宮を移したことにより、大和には継体天皇に敵対する勢力・葛城氏が勢力を誇っていたとも考えられるが、樟葉宮により淀川を、筒城宮により木津川を、そして弟国宮により桂川を支配していったとも考えられ、継体天皇からすれば予定の拠点づくりだったのかもしれません。 三大水系を押さえた天皇がいよいよ大和に宮を築いたのは即位後20年目の526年で、これが磐余玉穂宮である。 磐余は、神功皇后、履中天皇が都を置いた磐余稚桜宮が置かれたところでもある。 ここには磐余池という大池があったとされ、池のほとりに磐余稚桜宮、磐余玉穂宮の他に清寧天皇の磐余甕栗宮、用明天皇の池辺雙槻宮なども営まれたと伝えられ ている。  

 ところで、「日本書紀」の中に、継体紀以外で乙訓という地名が書かれているところが唯一垂仁紀の箇所にあります。丹波の道主王の子供である5人の姉妹を垂仁天皇に召し入れます。 その姉妹の長女・日葉酢媛を皇后として、残り3人の妹たちは妃となりますが、五女の竹野媛は、容貌がまずいということで故郷の丹波に戻されることになります。 竹野媛は帰り道の葛野で自ら輿から落ちて自害したことから、その地を堕国というようになり、現在、弟国(乙訓)は、それが訛ったものだという説がある。 丹波の豪族が大和朝廷と婚姻によって強く結びついていたということでもあり、 京丹後市の竹野神社に隣接して築かれている前方後円墳・神明山古墳と竹野媛とは関係があると見られる。  

  

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