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平安末期の勇者・以仁王が眠る高倉神社

2010年11月27日 | 平安時代

 久しぶりに平安時代のネタとして登場するのは、前々から行って見たいと思っていた以仁王の陵墓です。 平安時代の末期といえば、もちろん源平の合戦になります。 後白河天皇の皇子として生まれながら、親王宣下をうけることなく、王に甘んじていた鬱憤が20歳代後半に一気に吹き出ることとなります。  以仁王1151-1180は、後白河天皇と藤原季成の娘・成子の第三皇子で、「以仁王の令旨」を出して源氏に平家打倒の挙兵を促した事で知られる。 兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされており、同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。  八条院子内親王の猶子となり、幼少から英才の誉れが高く、皇位継承争いにおいても有力候補であったが、異母弟憲仁親王 (後の高倉天皇) の生母である平滋子の妨害に遭って阻止され、後に皇位継承の可能性は消滅した。  1179年の平氏のクーデタにより後白河法皇が幽閉され、ついに平家討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平家追討の「令旨」を全国の源氏に発した。 源頼政の挙兵の動機は、平宗盛が頼政の嫡男の仲綱から仲綱の愛馬である「木の下」を 権力を笠に無理やり奪い取り、しかも、馬のなを「木の下」から「仲綱」にかえて虐めたことにあるという。 この話の真意はわからないが、源氏にとってはこのうえもない屈辱であったことは確かである。   この決起は以仁王から源頼政に はたらきかけたものなのか、源頼政から以仁王にはたらきかけたものなのかは、諸説あっ てよくわからないが、1180年4月、平家追討の令旨は発せられ、このときの使者が熊野に隠れ住んでいた源行家である。   また王自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに 翌月、計画が平氏方に漏れた。 これは令旨が田辺にいた熊野別当湛増の耳に入って計画が露見したことによる。  結局以仁王は皇族籍を剥奪され、後白河法皇の配慮により土佐配流が決まったが、以仁王はすでに園城寺 (以仁王に味方したことにより後に平重衡らの兵によって焼き討ちに遭っている) に逃れている。 当時の園城寺(別名 三井寺)の長官は円恵法親王、つまり以仁王のひとつ違いの弟である。  また、源頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入って以仁王と合流したが、園城寺と対立していた比叡山延暦寺の協力を得ることができず、南都の仏教勢力を頼ることに決めた。 源頼政が宇治で防戦(世に言う橋合戦)している間に ( 頼政は平等院についたところで平知盛らに追撃され、宇治川を挟んでの合戦の末頼政は討死した)  以仁王は南都の興福寺へ向かい出発したが、南山城の加幡河原で平家・家人の藤原景高・藤原忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて矢に当たって討たれた。

                高倉神社内にある以仁王の陵墓 今現在も以仁王の無念は絶えることなく祀られているようです

                         高倉神社境内には見事な白馬が祭られていて、木の下を思い出す

  

   藤原成子-1177   
    ┣ 式子内親王1149-1201斎院                 
    ┣ 守覚法親王1150-1202                 
    ┃        藤原友実娘                     
    ┣ 以仁王1151-1180(┣源頼政1104-1180と挙兵)              
    ┣ 円恵法親王  源仲政?-?
    ┃(1152-1184三井寺長官)      
    ┃1078-1162 ┏(養女)━━━━ 藤原呈子シメコ九条院1131-(伊通コレミチ娘)              
    ┃  忠実┳藤原忠通1097-1164  ┃雑子女:常盤御前1138-?         
    ┃    ┃  ┣基実1143-1166 ┃     ┣今若1153-1203
    ┃    ┃  ┣基房1145-1231 ┃     ┣乙若1155-1181
    ┃    ┃  ┗兼実1149-1207 ┃     ┣牛若1159-1189
    ┃    ┗藤原頼長1120-1156  ┃    源義朝1123-1160     
    ┃1115-1161 ┃(保元の乱で死亡) ┃     
    ┃サネヨシ実能┳幸子        ┃    
    ┃  教長┃徳大寺     76近衛天皇1139-1155      
    ┃    ┗公能右大臣     ┃                  
    ┃        ┣藤原実定  ┃     
    ┃        ┣藤原多子1140-1201(幸子が養母 頼長の養子)       
    ┃        ┣ 娘    ┃  
    ┃     藤原豪子 ┗一条能保┃   藤原忠隆1102-1150          
    ┃┏藤原経宗1119-1189      ┃藤原顕頼┣藤原信頼1133-1160後白河寵臣                  
    ┃┗源懿子1116- ┏━━━━━━━┛ ┣ 公子                    
    ┃ ┃  1143 ┃ 伊岐致遠女   ┣勧修寺光頼           
待賢門院┃ ┃     ┃ ┣六条天皇79代 ┣藤原惟方1125-(洛検非違使長)   
  ┃ ┃ ┣二条天皇78代1143-1165藤原惟方母俊子、時子が乳母               
  ┃ ┃ ┃     ┃   
  ┃ ┃ ┃    女朱内親王1141-1176    
  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇  ┃  (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す) 
74代┃   ┃     ┣藤原成範
  ┣近衛 ┃  藤原朝子┗小督?-?           
  ┃76代 ┃  (紀伊局) ┃ ┃        
美福門院  ┃      ┃ 藤原隆房        
      ┃      ┃ ┃        
      ┃   葵前 ┃ 清盛・娘四女        
      ┃   ┣-  ┣範子内親王1177-1210斎院              
      ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181    
      ┃              ┃  ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239         
      ┃              ┃ 藤原殖子(七条院)          
  藤原祐子┃           ┣言仁トキヒト親王(81代安徳天皇1178-1185)
     ┣滋子1142-1176 平清盛 ┃ 
     ┃(建春門院)   ┃  ┃ 
  平時信         ┣徳子1155-1214(建礼門院)
    ┣時子1126-1185  ┛                      
    ┣時忠1127-1189院政期の政治家                    
    ┣親宗1142-1199   ┣讃岐中将時実                  
  藤原家範娘      ┣右大弁時宗                  
             ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                  
             ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                  
             ┣ゆかり姫                  
           師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)

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