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柚羽さん

2010年11月14日 | 柚羽 恋花 結愛 由佳 優華 Yuuki ゆい













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柚羽さん

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2010年11月14日 | 柚羽 恋花 結愛 由佳 優華 Yuuki ゆい

ひとつき程前のナイト撮影に続いて二回目の柚羽さんです

















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甘樫岡東麓遺跡

2010年11月11日 | 奈良・飛鳥時代

 ここのところ紹介してきたのは、水谷千秋氏の「謎の豪族・蘇我氏」からの抜粋である。 水谷氏がこの本を書き終えたのは2005年末で、このとき丁度奈良文化財研究所が甘樫岡東麓から5棟の建物跡を発掘し、翌朝の新聞ではトップで報じられたらしい。建物は甘樫岡に入り込んだ谷を大規模に造成したもので、倉庫とみられるが、焼けた壁土や炭が埋まっていたことから最後は消失したとみられる。 つまり蘇我蝦夷邸の一部とみられるという。 この調査の対象となったのは東麓面の南側であるが、北側には入鹿の邸宅・谷の宮門があった。 当時の新聞には、甘樫岡全体が要塞であったのではないか、今後の調査が期待される、というものであったらしい。 そしてそれから1年半後の2007年2月、再び新聞のトップを甘樫岡東麓遺跡が賑わした。 この時の驚きを私は今も覚えている。 さっそく2月11日に現地に行った。 東麓遺跡発掘調査の現地見学会があったからである。 いつの間にか逆賊にされた蘇我氏ではあるが、いまや奈良文化財研究所や、奈良橿原考古学研究所が百数十回にも及ぶ発掘調査を実施する主役となっている。

                               2007年2月、新聞のトップを飾った甘樫岡東麓遺跡

   

                                このときも見学会に訪れたのは数千人に及んだ

  

 そういえば、最近の10/26に東大寺大仏殿の土中、膝下のあたりで 「金堂鎮壇具」(国宝)のうち、「金銀荘大刀」2本から、それぞれ「陽劔」「陰劔」と書かれた銘文が見つかった。 光明皇后が、夫の聖武天皇遺愛の宝刀の筆頭として正倉院に献納し、3年後の759年に正倉院から取り出して行方不明になっていた2刀とみられ、1250年ぶりにみつかったものである。 何故行方不明になったのか、何故大仏の近くなのかがこれから議論されるところである。 聖武天皇は生涯苦しみの中で生き抜いた。 藤原氏の呪縛からのがれようとして何度も遷都を繰り返し、ついには盧舎那仏を建立し、恐れを拭い去り、願いを与えるという思いを大仏の印相に託した。 当時正倉院から持ち出すことのできる人物といえば、妃である光明皇后しかいない。  聖武天皇の供養のために、光明皇后の思いのこもった陰陽劔を大仏の近くに埋めることによって、盧舎那仏の加護をうけようとしたと考えれば納得がいく。 聖武天皇がなくなった756年頃は、皇位継承問題もあって光明皇后の不安は大きかったはずであり、その可能性はかなり大きいと思う。 「陰陽」をテーマに歴史をみている私としては、はやくこの陰陽劔を見てみたい。

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栄華を誇った蘇我氏が滅亡した理由

2010年11月10日 | 奈良・飛鳥時代
 あれだけ栄えた蘇我氏は、乙巳の変で中大兄皇子の一太刀によってあえなく滅んだのであるが、そのとき蝦夷は甘樫岡の邸宅で腹心の東漢氏の警護の元に健在であった。 にもかかわらず諸王、諸豪族はこぞって中大兄皇子に続いて飛鳥寺に篭り、勝敗は決したのである。 蘇我氏は諸豪族から見捨てられたことによって滅亡したのである。 ではその落日はいつから始まっていたのであろうか。 一般的に言われているのは、入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことへの諸豪族の反発がある。  入鹿が山背大兄王を滅ぼしたとき、一般的恐怖をもたらしたという構図は、高句麗の独裁政治におけるそれと似ているという。 入鹿が山背大兄王を襲ったとき、諸皇子と共謀して・・となっているが、諸皇子は入鹿にだまされただけであって、真意ではなかったともいう。 しかし諸皇子にとっても入鹿に加勢することに意味があったはずで、 だからこそ入鹿は加勢を求めた。 加勢した皇子の具体的な名前はよくわからないが、巨勢徳太臣、大伴馬甘連公、軽王が加わったと上宮聖徳太子伝にはあるという。  大化の改新以降に巨勢徳太臣は左大臣、大伴馬甘連公は右大臣、軽王は孝徳天皇として即位している。 すると、山背大兄王一族襲撃には、大化の改新を進めた中大兄皇子や中臣鎌足も関与していたのではないかという説が浮上する。  舒明天皇崩後に皇極天皇が即位したことにより山背大兄王の即位は阻止された。 蘇我氏は馬子の娘婿である古人大兄皇子をおし、非蘇我系は中大兄皇子や軽皇子をおしたが、二人は兄弟であり、山背大兄王排除という点で共通している。 

 蘇我氏による王族の殺害は山背大兄王のときが初めてではなく、崇峻天皇殺害も実行している。 しかしなんら朝廷に動揺はなく、馬子への非難もない。 山背大兄王一族殺害でも蘇我氏に対する非難はそんなにおきていない。 事件の背後には皇位継承問題があり、蘇我氏だけによるものではない意図が働いていそうではある。  山背大兄王一族が滅亡した時点で、蘇我氏が推す舒明天皇の皇子・古人大兄皇子が有利であった。 中大兄皇子は若く、時期尚早であった。 皇極としてはしばらく皇位に居座り、わが子・中大兄皇子が成人した段階で譲位するつもりであった。 しかし蘇我氏からの圧力は高まる。 蝦夷・入鹿は甘樫岡に邸宅を作り、皇極への威嚇の意図もあって東漢氏の兵力を動員して軍備を増強した。 皇極は追い詰められており、先手を打ってクーデターを起こしたというのが真相なのかもしれない。 日本書紀には入鹿が皇位を狙ったという所伝がみられるというが、これは藤原氏による捏造、蘇我氏を逆賊にしようとするためのものと考えてよい。 蝦夷・入鹿がもくろんでいたことは古人大兄皇子の即位である。  

 大化新政権は律令国家建設をめざした改革であり、それらを草案したのは唐からの国博士・僧旻と高向玄理である。 僧旻は飛鳥寺の寺主を務めていたから蘇我氏とも近い人物である。 僧旻は自らの僧坊で周易を青年貴族層に講じており、そこには若き日の鎌足や入鹿がいた。 そして師から高い評価をえていたのは入鹿である。 僧旻は祖国・唐との交渉を望んでいたが朝廷はそれを許さなかった。 こうした状況を周易にとりいれた講義に入鹿は興味を抱き、国政改革を目指していたものと思われる。 皇極天皇から絶対の信頼を得た入鹿は、結局だまし討ちによって殺された。 当時の政権の主導権は天皇よりも入鹿にあったから、謀反の罪で征伐するのは不可能だったのである。 つまり何ら正当性のないものであり、この凶行が成功したとしても諸豪族の支持を得られるかどうかはわからなかったから、中大兄皇子らは飛鳥寺に篭って次の戦いに備えた。 しかし諸豪族は蝦夷側にはつかなかった。 蘇我氏の支流ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂を味方につけていたのは大きかった。   
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葛城山・安楽寺は沙羅の寺

2010年11月09日 | 奈良・飛鳥時代

 沙羅の寺 「安楽寺」は、高野山真言宗葛城山にあります。 元は法相宗のお寺で、1696年の「葛城寺縁起」によると、「稲屋村阿弥陀山葛城寺(亦名、妙安寺)貞心院は聖徳太子の創建で後に葛木臣に賜うた」とあり、太子四十六院の随一で、八大伽藍の1つとして栄えたが、1590年代になると、堂宇は荒廃し、住僧減じ、今となっては「本堂」と国重文の「塔婆」が残るのみです。 「安楽寺」の奧には「安楽寺塔婆」が建っています。 元は三重塔でしたが、1670年代に九輪が墜落して、上の2層が崩れ、初層のみが残り、その上に宝形屋根をのせたものです。 縁と飛檐を失っているものの、その他はほぼ原形をとどめ、三手先斗共をもった本格的な塔婆建築で、古風な手法が残り、内部は四天柱内いっぱいに仏壇を置いた痕跡があるという。 今は奧に仏壇を仮設して、室町時代の作と推定される「大日如来像」を安置しているということです。 

  

  

 ところで、標識にある「新宮山古墳」というのは、巨勢氏首長クラスの前方後円墳で、権現堂古墳についで古く、玄室内部の石棺もじっくりと見ることのできる石室があります。 実はここを訪れたかったのですが、今回は時間切れで次回におあずけです。

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蘇我氏が目指したのは軍事より官僚制度

2010年11月08日 | 奈良・飛鳥時代

 遷都1300年祭のネタが切れたところで、逆賊・蘇我氏についての考察に戻りたいと思います。 

蘇我氏は自分たちが官僚的であるにとどまらず、大和政権に参画する中央諸豪族すべてを国家のために働く官僚に再編していこうとしていた。 それが冠位十二階である。推古11年に制定された冠位十二階は、12の階級に個人を位置づけるもので、出身氏族や姓にこだわらず、個人の功績や能力によって人材を登用しようとしたものであった。 冠位十二階は厩戸皇子が制定したというように習ったが、これは間違いであり、日本書紀をはじめとする史書にそのような記述はなにもない。 官位の授与は中央豪族に限られ、蘇我馬子や厩戸皇子は授与されていない。 つまり、冠位十二階が蘇我氏をはじめとする中央豪族の意向を受けて制定され、 蘇我馬子や厩戸皇子は授与する側の立場であった。 馬子は天皇から紫冠が与えられており、官僚の頂点に立ち統率する権限があった。 官位が与えられたのは東漢氏、秦氏、鞍作氏などの蘇我氏の配下である渡来系豪族も数多く含まれていたと思われる。 もともと豪族としての経済的、軍事的な基盤は決して卓越してはいなかったが、有能な渡来系豪族を率いて官僚的な方針で王権に貢献し地位を高めていったのである。 

 こうして蘇我氏は王族に匹敵するほどの権威がそなわっていった。 厩戸皇子一族全体が蘇我氏の出身となったことでもわかるように公的には天皇・王族が蘇我氏よりも上位にあっても、実質的には両者は対等の関係であった。 蘇我馬子の晩年ころから彼らは葛城氏の末裔であることをこれまで以上に意識し強調するようになる。 葛城の地の返還を推古天皇に要請したのは馬子の死の2年前のことである。 後を継いだ蝦夷も、一族の祖廟を葛城高宮にたてたとされる。  「仁徳記」のなかで、葛城高宮は次のように出てくる。 「つぎねふや 山背河を宮のぼり 我が上れば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」  葛城高宮とは、息長帯比賣(神功)の母・葛城の高額比賣の宮なのである。 また、高鴨神社、高天彦神社、一言主神社と、記紀に多彩に活躍する葛城に坐す伝承の神々を祀る神社のすぐ近くにありますが、まだ訪れておりません。

                                                        神功皇后陵は平城京のすぐ北側にあります

  

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坂井裕美さん

2010年11月07日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

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辰田彩羽さん

2010年11月07日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

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辰田彩羽さん

2010年11月07日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈















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