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継体天皇・筒城宮

2010年11月18日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 日本書紀によると、継体天皇は河内の507年樟葉宮で即位し、山背の筒城宮に遷りそこから 518年弟国の宮に遷ると記述がある。 筒城宮の地は仁徳天皇の皇后・磐之媛の故郷とも伝えられている。 しかし考古学的には筒城宮址の位置は不明であり、関係の遺跡が木津川沿いにあったとい見解も最近出されている。 一方「興福寺官務」に記載のある筒城寺が現在の普賢寺大御堂を中心とする観音寺であって、筒木大寺や普賢寺址に関係することが知られている。 これにより筒城宮の所在地を筒城寺の近接地に比定する見解が生まれた。 1928年に三宅安兵衛の意思によって、浜田青陵博士の書になるという「継体天皇皇居故址」の碑が 多田羅の三軒家に建てられたことはよく知られている。 1960年には、地名の都谷にゆかりを求めた地元の有志による筒城宮址会が筒城宮址の碑を現在の同志社国際高校の敷地内に建立した。 この建立にあわせて継体天皇皇居故址の碑も隣接地点に移設された。 1986年にこの石碑は地元の要望もあって同志社大学構内の不動尊遺址碑の脇に再度移設され現在に至っている。 

 これは、同志社大学構内にある筒城宮址の説明板に書かれていたものである。 新王朝の始祖ともいえるオホド王(継体天皇)が越から南下して最初に都としたのが北河内の樟葉宮で、次に都としたのが南山背の筒城なのである。 因みに三番目に都としたのが山背の弟国宮である。 樟葉、筒城、弟国はいずれも重要な歴史的な地名で、律令体制下では筒城は綴喜郡、樟葉は葛葉郷、弟国は弟国郡となっている。 森浩一先生の著書は弟国宮と丹波地方とを結ぶ歴史的意義から本題に入っているので、筒城宮についての記載はあまりない。 第26代継体天皇は新王朝の始祖となったが、 これは第25代武烈天皇に後継者がなかったために越から迎え入れられたからである。 「謎の豪族・蘇我氏」のところで紹介したが、継体天皇の大和入りには大伴氏、物部氏、馬飼部が貢献し、賛成した蘇我氏は後に政権を掌握することとなる。 継体天皇の大和入りに反対した葛城氏は滅亡した。 継体天皇の遷都を見てみると、筒城宮から樟葉宮の後弟国宮となっているように、物部氏の本拠地に近づいており、20年を要してやっと蘇我氏の本拠地である大和いりを果たした推移がよくわかる さて、継体天皇は第24代仁賢天皇の皇女・手白香皇女を妃に迎え、第29代欽明天皇を設け、この頃から蘇我氏と連携して大和王朝に大きく貢献した。 

  同志社大学田辺キャンパス構内にある筒城宮址であるから、もちろん正門で入門許可をとって中へ入った。 駐車場に車をとめると址はほんの200mほどの距離ではあるが、警備の方に案内してもらった。 警備員の多さとその親切さにはいささか驚いた。 また途中には学生食堂があり、中に入ってうどんでも食べたい気分であったが、それは遠慮した。 理工学部、法学部、経済学部など多くの学部があって巨大なキャンパスとレンガを貼りつめた建物が周囲の紅葉とマッチしていて、ほんとうに美しい。 色々な表情を見せる学生を見ていると、私も学生気分に戻ったようで、大変楽しかった。   

               

               

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