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甘樫岡東麓遺跡

2010年11月11日 | 奈良・飛鳥時代

 ここのところ紹介してきたのは、水谷千秋氏の「謎の豪族・蘇我氏」からの抜粋である。 水谷氏がこの本を書き終えたのは2005年末で、このとき丁度奈良文化財研究所が甘樫岡東麓から5棟の建物跡を発掘し、翌朝の新聞ではトップで報じられたらしい。建物は甘樫岡に入り込んだ谷を大規模に造成したもので、倉庫とみられるが、焼けた壁土や炭が埋まっていたことから最後は消失したとみられる。 つまり蘇我蝦夷邸の一部とみられるという。 この調査の対象となったのは東麓面の南側であるが、北側には入鹿の邸宅・谷の宮門があった。 当時の新聞には、甘樫岡全体が要塞であったのではないか、今後の調査が期待される、というものであったらしい。 そしてそれから1年半後の2007年2月、再び新聞のトップを甘樫岡東麓遺跡が賑わした。 この時の驚きを私は今も覚えている。 さっそく2月11日に現地に行った。 東麓遺跡発掘調査の現地見学会があったからである。 いつの間にか逆賊にされた蘇我氏ではあるが、いまや奈良文化財研究所や、奈良橿原考古学研究所が百数十回にも及ぶ発掘調査を実施する主役となっている。

                               2007年2月、新聞のトップを飾った甘樫岡東麓遺跡

   

                                このときも見学会に訪れたのは数千人に及んだ

  

 そういえば、最近の10/26に東大寺大仏殿の土中、膝下のあたりで 「金堂鎮壇具」(国宝)のうち、「金銀荘大刀」2本から、それぞれ「陽劔」「陰劔」と書かれた銘文が見つかった。 光明皇后が、夫の聖武天皇遺愛の宝刀の筆頭として正倉院に献納し、3年後の759年に正倉院から取り出して行方不明になっていた2刀とみられ、1250年ぶりにみつかったものである。 何故行方不明になったのか、何故大仏の近くなのかがこれから議論されるところである。 聖武天皇は生涯苦しみの中で生き抜いた。 藤原氏の呪縛からのがれようとして何度も遷都を繰り返し、ついには盧舎那仏を建立し、恐れを拭い去り、願いを与えるという思いを大仏の印相に託した。 当時正倉院から持ち出すことのできる人物といえば、妃である光明皇后しかいない。  聖武天皇の供養のために、光明皇后の思いのこもった陰陽劔を大仏の近くに埋めることによって、盧舎那仏の加護をうけようとしたと考えれば納得がいく。 聖武天皇がなくなった756年頃は、皇位継承問題もあって光明皇后の不安は大きかったはずであり、その可能性はかなり大きいと思う。 「陰陽」をテーマに歴史をみている私としては、はやくこの陰陽劔を見てみたい。

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