平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

中川愛さん

2010年11月23日 | 中川愛 中村葵 長澤愛 中嶋飛鳥 なお

コメント

中川愛さん 鶴見緑地にて

2010年11月23日 | 中川愛 中村葵 長澤愛 中嶋飛鳥 なお

中川愛さんは今回初めてご一緒させて頂きました

以前から是非とも撮りたいと気になっていたお嬢さんです

ロケ地は鶴見緑地、ラストチャンスの紅葉に彩られた中での撮影です

コメント

丹波と伊勢神宮外宮

2010年11月23日 | 記紀創世紀

 丹波は機内では播磨、近江についで農業の盛んなところであったことが和名抄に記載の田の面積からわかる。 天皇が即位後はじめて新穀を天照大神に供える儀式が大嘗祭であり、この祭りで用いる新穀を栽培する国の筆頭が近江、二番目が丹波と備中であったという。 その昔、天照大神の朝夕の御食の神にした等由気大神が丹波にあり、伊勢の山田村に移したという。 そこが伊勢神宮の外宮であり、豊受大神として祀られているのである。 考えてみると現在の丹波は米だけではなく、大豆、小豆、松茸、猪肉、栗など多くの食材で有名な産地であり、当時と何らかわっていないのかもしれない。 

 ところで、平城京の一角に左大臣・長屋王の邸宅があり、その跡地から無数の木簡が出土した。 その木簡から長屋王の妹とみられる竹野女王に送られたとみられるさまざまな食材の木簡が発見された。 竹野女王、まさに丹波にゆかりのある女性であり、ここからも丹波の食材が一級品であったことが伺える。

長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡

竹野皇子二取米三升○余女   竹野王子進米一升大津/甥万呂/  竹野王子御所進粥米二升受老

                      

 堕国の名に由来する竹野媛と竹野女王は関係はないが、竹野媛にゆかりの神明山古墳が丹波にあるらしい。 竹野媛の時代から500年後、豊受大神が伊勢神宮に遷されたのは雄略天皇の時代であり、竹野女王が平城京で優雅な生活を送ったのはそれから200年後のことである。 ほんとうに長きに渡って丹波地方は都と深い交流をもっていたものである。

コメント

大住車塚古墳 別名チコンジ山古墳

2010年11月22日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 この大住車塚古墳は、五世紀はじめごろに造られた前方後方墳で、地元ではチコンジ山古墳と呼ばれています。古墳のまわりには、長方形の周濠があります。主体部(棺をおさめたところ)は、竪穴式石室か粘土槨と考えられています。副葬品は不明です。南西側に並んであるのが大住南塚古墳で、昭和六十一・六十二年(一九八六・八七)の発掘調査により、四世紀おわりごろに造られた前方後方墳で、長方形の周濠があることがわかりました。周濠の一部は現在でも池として残っています。ほぼ同じ大きさの同じ形の古墳が二つ並んであることになり、どちらの古墳にも葺石と埴輪があります。 車塚古墳 全長66m、後方部一辺30m・高4.5m、前方部幅18m・高1.5m  周濠長98m・幅60m(数値は現況)  南塚古墳 全長71m、後方部一辺37m・高4.1m以上、前方部幅30m  周濠長103m・幅73m(数値は発掘調査による復元)  京田辺市教育委員会  「説明板より」

 京田辺市にあるこの古墳は、丹波と大和を結ぶ古山陰道沿いにあって、万葉集では丹波道と呼んでいる。 そして別名のチコンジ山古墳 「智光寺山古墳」 というのに身近な歴史を感じる。 その別名、どうみても明智光秀にゆかりのある山である。 そういえば、明智光秀が本能寺の変において織田信長を倒す前日、丹波で謀反の意思を固めたといわれている。 京都愛宕山での連歌会で詠んだ「時は今 雨が下しる 五月かな」  その明智光秀が山城へと南下してくるときに古山陰道を通った。 そして織田信長を殺した後光秀が本拠地としたのは弟国にあった勝竜寺城であった。 また光秀が豊臣秀吉軍との決戦の場としたのが山崎であるから弟国にあたる。 

  

                                         

コメント

継体天皇と結びを深めた丹波の雲部車塚古墳

2010年11月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 継体天皇が営んだ弟国宮、樟葉宮、筒城宮には淀川水系沿いであるという共通点があった。 丹波国南部の桑田と船井地方は淀川上流の保津川水系にある。 保津川は山城へはいって桂川となり、宇治川・鴨川・木津川と合流して淀川になることから、丹波も淀川水系であり、乙訓や葛野の西部と呼ばれている。 桑田郡は南北に50kmにも及び若狭国と接する大きな郡であった。 桑田には国府・国分寺があっただけではなく、継体天皇の誕生前史として見落とせないことであるが、倭彦王が丹波国の桑田村(村とは当時有力な町を示す)にいたことも重要なことである。 この桑田村は現在の亀岡市のあたりをいう。 ところで、丹波国は桑田、船井のほかに天田、何鹿、多紀、氷上の六郡からなっている。 多紀と氷上は現在の兵庫県にあり多紀郡(丹波篠山)には 雲部車塚古墳という県下随一の巨大な前方後円墳がある。 

 丹波篠山にある雲部車塚古墳は兵庫県下第2の規模を誇る全長140m、後円部は径80メートル、前方部は幅83メートル、盾型の周豪をもち、さらに外側に周庭帯をめぐらしている前方後円墳で古墳時代中期(5世紀)の築造とされ、崇神天皇の頃の四道将軍のひとり丹波道主命を葬ったものともいわれている。 (5世紀の築造で国造級の墳墓との推定が一般的) 左右に車の車輪のように陪塚があるので、車塚と名付けられたようですが、もともとは周りに7基の陪塚があったと云います。 大和と山陰方面を結ぶ重要地城の篠山盆地に大勢力を誇った集団が存在していたことを物語るものである。  丹波道主命には丹波之河上之摩須郎女との間に日葉酢媛命がいます。 日葉酢媛命は垂仁天皇の妃となり、五十瓊敷入彦命、大足彦忍代別尊(後の景行天皇)、大中姫命、倭姫命、稚城瓊入彦命をもうけています。 また、日葉酢媛命以外にも渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛といった娘がおり、4人とも垂仁天皇の妃となっています。 5人目の竹野媛は醜い容貌であったため自害し、堕ちた地域を堕国といったのは先に紹介したとおりです。

  

コメント

辰田彩羽さん ラストは坂井裕美さんと

2010年11月21日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

コメント

坂井裕美さん

2010年11月21日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

コメント

辰田彩羽さん

2010年11月21日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

コメント

辰田彩羽さん

2010年11月21日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

コメント

坂井裕美さん

2010年11月21日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

コメント

辰田彩羽さん

2010年11月21日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

コメント

辰田彩羽さん

2010年11月21日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

コメント

坂井裕美さん

2010年11月21日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

コメント

辰田彩羽さん

2010年11月21日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

コメント

辰田彩羽さん

2010年11月21日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

コメント