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蘇我氏が目指したのは軍事より官僚制度

2010年11月08日 | 奈良・飛鳥時代

 遷都1300年祭のネタが切れたところで、逆賊・蘇我氏についての考察に戻りたいと思います。 

蘇我氏は自分たちが官僚的であるにとどまらず、大和政権に参画する中央諸豪族すべてを国家のために働く官僚に再編していこうとしていた。 それが冠位十二階である。推古11年に制定された冠位十二階は、12の階級に個人を位置づけるもので、出身氏族や姓にこだわらず、個人の功績や能力によって人材を登用しようとしたものであった。 冠位十二階は厩戸皇子が制定したというように習ったが、これは間違いであり、日本書紀をはじめとする史書にそのような記述はなにもない。 官位の授与は中央豪族に限られ、蘇我馬子や厩戸皇子は授与されていない。 つまり、冠位十二階が蘇我氏をはじめとする中央豪族の意向を受けて制定され、 蘇我馬子や厩戸皇子は授与する側の立場であった。 馬子は天皇から紫冠が与えられており、官僚の頂点に立ち統率する権限があった。 官位が与えられたのは東漢氏、秦氏、鞍作氏などの蘇我氏の配下である渡来系豪族も数多く含まれていたと思われる。 もともと豪族としての経済的、軍事的な基盤は決して卓越してはいなかったが、有能な渡来系豪族を率いて官僚的な方針で王権に貢献し地位を高めていったのである。 

 こうして蘇我氏は王族に匹敵するほどの権威がそなわっていった。 厩戸皇子一族全体が蘇我氏の出身となったことでもわかるように公的には天皇・王族が蘇我氏よりも上位にあっても、実質的には両者は対等の関係であった。 蘇我馬子の晩年ころから彼らは葛城氏の末裔であることをこれまで以上に意識し強調するようになる。 葛城の地の返還を推古天皇に要請したのは馬子の死の2年前のことである。 後を継いだ蝦夷も、一族の祖廟を葛城高宮にたてたとされる。  「仁徳記」のなかで、葛城高宮は次のように出てくる。 「つぎねふや 山背河を宮のぼり 我が上れば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」  葛城高宮とは、息長帯比賣(神功)の母・葛城の高額比賣の宮なのである。 また、高鴨神社、高天彦神社、一言主神社と、記紀に多彩に活躍する葛城に坐す伝承の神々を祀る神社のすぐ近くにありますが、まだ訪れておりません。

                                                        神功皇后陵は平城京のすぐ北側にあります

  

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