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坂井裕美さん

2010年11月07日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

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辰田彩羽さん

2010年11月07日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

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辰田彩羽さん

2010年11月07日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈















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坂井裕美さん

2010年11月07日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

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坂井裕美さん

2010年11月07日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

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辰田彩羽さん

2010年11月07日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈













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辰田彩羽さん

2010年11月07日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈















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坂井裕美さん

2010年11月07日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

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辰田彩羽さん

2010年11月07日 | 辰田彩羽 高尾志伊奈

辰田彩羽さん 鶴見緑地公園にて はじめましての彼女は168cmの長身

たいへん撮り易いお嬢さんでした















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坂井裕美さん

2010年11月07日 | 大川真代 坂井裕美 小田菜々子

坂井裕美さん 鶴見緑地にて   相変わらず人気の高い坂井さんです

2010/11/6に引き続いて2010/11/7と連ちゃんの撮影会なので少し疲れました

来週は紅葉の撮影をゆっくりとしたいです

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遣唐使といえば吉備真備

2010年11月07日 | 奈良・飛鳥時代

 遣唐使に選ばれて学問を極た人物といえば吉備真備や僧・玄坊である。 この頃、藤原氏の復興を願ってやまない藤原不比等の孫・藤原仲麻呂が台頭しようとしていた。 これは唐から聖武天皇が鑑真を招いた(754年)すこし前のことである。 この頃に使われていた遣唐使船の復元モデルがこれである。 一回に派遣される遣唐使の数は500人にもおよび、その遣唐使の目的も学問、陰陽、建築、料理などさまざまである。船の乗船定員は約150人であり、一度に4、5隻の船団が唐に向かうのである。  

 吉備真備693-775は、吉備地方の豪族で中央の下級武官(右衛士少尉)であった下道朝臣圀勝の子で母は奈良の豪族楊貴(八木)氏の娘である。 日本書紀には「5世紀初め、応神天皇が吉備の国を5つに分け、ここに住む5人の兄弟や子供に分け与えた」とあり、吉備真備は、その中の一人が「下道氏」の名のもとで治めた下道郡出身の官人の子として誕生した。 吉備下道氏の本拠地は現在の真備町箭田地区あたりと推定されており、日本でも屈指の巨大な石室を持つと言われる「箭田大塚古墳」は、下道氏一族を葬った王墓かもしれない。 下道氏は、吉備地方に勢力を誇った地方豪族吉備氏の一族で、姓は臣から684年に朝臣姓を賜った。 吉備真備を生んだ下道氏の本拠地は、真備町で高梁川に注ぐ小田川流域一帯だったようである。 その小田川にそそぐ谷川に「子洗川」があり、江戸時代の学者はこの地に生まれた吉備真備ゆかりの川の名と推定した。その小川の上流にあった湧き清水が、いつの頃から真備の産湯の井戸と伝承され、現在では、二度も遣唐使として中国に渡った真備にちなんで整備され、その地は下道氏墓所として国の史跡に指定されています。 吉備真備は19年間遣唐使として漢籍の将来を担うことにあった。 735年の帰国後の2年間で異常出世を果たし朝廷に食い込み、聖武天皇に寵愛された。737年に藤原四兄弟が亡くなっているから幸運な次期に帰国し出世したと言える。広嗣の乱以降は東宮の教育係として手腕を発揮し、阿部内親王(後の孝謙天皇)は吉備真備を師と仰いだ。が、749年藤原仲麻呂の台頭で九州に左遷となり仲麻呂時代は埋没していたが764年都から呼ばれ、造東大寺長官に任命され恵美勝押討伐軍に参加し活躍した。乱後は称徳天皇のもとで右大臣にまで登りつめた。 称徳天皇崩御後、皇位争いで藤原一族が推す白壁王(光仁天皇)に皇位をさらわれて失脚した。彼の人生は反藤原氏として貫かれたのである。

 文室浄三693-770の父は天武天皇の皇子・長親王で、初名は智努王といい、兄弟に大市王等がいたが、母は不明である。  717年従四位下に叙されると、造宮卿などを歴任し、平城京の造営を手がけたといわれている。 752年文室真人の姓を賜って臣籍に下り、761年頃浄三と名を改めた。 これは唐招提寺に帰依した鑑真より戒律を授かったためである。 757年参議となり、中納言を経て762年御史大夫(大納言)に昇任すると、764年には職を辞している。 770年の称徳天皇の崩御後、吉備真備に皇太子に推されたが、浄三はこれを辞退し、その約2ヵ月後に亡くなった。  文室浄三は、聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上とともに唐招提寺の建立に尽力します。 鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するためを東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後の758年、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を営むことになります。 聖武太上天皇はすでに崩御していたが、光明皇太后と孝謙天皇の鑑真への帰依は深く、当時権力を振るっていた藤原仲麻呂も鑑真を歓迎し、やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や東塔が建立されます。 伽藍全体が完成したのは平安時代の初頭であり、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となります。 実は、文室浄三とともに唐招提寺の建立に尽力した人物に、藤原仲麻呂の息子・藤原刷雄がいます。 後に仲麻呂は反乱を起こして一族連座して処刑されますが、六男の藤原刷雄は若い時から禅行を修めており、遣唐使留学生だった経歴が考慮され死を免れ隠岐に配流されたが、赦免されて官界に復帰後は但馬守に任ぜられ、唐招提寺の建立に尽力したといわれている。

                                  原寸大に再現された遣唐使船

         

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