平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

栄華を誇った蘇我氏が滅亡した理由

2010年11月10日 | 奈良・飛鳥時代
 あれだけ栄えた蘇我氏は、乙巳の変で中大兄皇子の一太刀によってあえなく滅んだのであるが、そのとき蝦夷は甘樫岡の邸宅で腹心の東漢氏の警護の元に健在であった。 にもかかわらず諸王、諸豪族はこぞって中大兄皇子に続いて飛鳥寺に篭り、勝敗は決したのである。 蘇我氏は諸豪族から見捨てられたことによって滅亡したのである。 ではその落日はいつから始まっていたのであろうか。 一般的に言われているのは、入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことへの諸豪族の反発がある。  入鹿が山背大兄王を滅ぼしたとき、一般的恐怖をもたらしたという構図は、高句麗の独裁政治におけるそれと似ているという。 入鹿が山背大兄王を襲ったとき、諸皇子と共謀して・・となっているが、諸皇子は入鹿にだまされただけであって、真意ではなかったともいう。 しかし諸皇子にとっても入鹿に加勢することに意味があったはずで、 だからこそ入鹿は加勢を求めた。 加勢した皇子の具体的な名前はよくわからないが、巨勢徳太臣、大伴馬甘連公、軽王が加わったと上宮聖徳太子伝にはあるという。  大化の改新以降に巨勢徳太臣は左大臣、大伴馬甘連公は右大臣、軽王は孝徳天皇として即位している。 すると、山背大兄王一族襲撃には、大化の改新を進めた中大兄皇子や中臣鎌足も関与していたのではないかという説が浮上する。  舒明天皇崩後に皇極天皇が即位したことにより山背大兄王の即位は阻止された。 蘇我氏は馬子の娘婿である古人大兄皇子をおし、非蘇我系は中大兄皇子や軽皇子をおしたが、二人は兄弟であり、山背大兄王排除という点で共通している。 

 蘇我氏による王族の殺害は山背大兄王のときが初めてではなく、崇峻天皇殺害も実行している。 しかしなんら朝廷に動揺はなく、馬子への非難もない。 山背大兄王一族殺害でも蘇我氏に対する非難はそんなにおきていない。 事件の背後には皇位継承問題があり、蘇我氏だけによるものではない意図が働いていそうではある。  山背大兄王一族が滅亡した時点で、蘇我氏が推す舒明天皇の皇子・古人大兄皇子が有利であった。 中大兄皇子は若く、時期尚早であった。 皇極としてはしばらく皇位に居座り、わが子・中大兄皇子が成人した段階で譲位するつもりであった。 しかし蘇我氏からの圧力は高まる。 蝦夷・入鹿は甘樫岡に邸宅を作り、皇極への威嚇の意図もあって東漢氏の兵力を動員して軍備を増強した。 皇極は追い詰められており、先手を打ってクーデターを起こしたというのが真相なのかもしれない。 日本書紀には入鹿が皇位を狙ったという所伝がみられるというが、これは藤原氏による捏造、蘇我氏を逆賊にしようとするためのものと考えてよい。 蝦夷・入鹿がもくろんでいたことは古人大兄皇子の即位である。  

 大化新政権は律令国家建設をめざした改革であり、それらを草案したのは唐からの国博士・僧旻と高向玄理である。 僧旻は飛鳥寺の寺主を務めていたから蘇我氏とも近い人物である。 僧旻は自らの僧坊で周易を青年貴族層に講じており、そこには若き日の鎌足や入鹿がいた。 そして師から高い評価をえていたのは入鹿である。 僧旻は祖国・唐との交渉を望んでいたが朝廷はそれを許さなかった。 こうした状況を周易にとりいれた講義に入鹿は興味を抱き、国政改革を目指していたものと思われる。 皇極天皇から絶対の信頼を得た入鹿は、結局だまし討ちによって殺された。 当時の政権の主導権は天皇よりも入鹿にあったから、謀反の罪で征伐するのは不可能だったのである。 つまり何ら正当性のないものであり、この凶行が成功したとしても諸豪族の支持を得られるかどうかはわからなかったから、中大兄皇子らは飛鳥寺に篭って次の戦いに備えた。 しかし諸豪族は蝦夷側にはつかなかった。 蘇我氏の支流ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂を味方につけていたのは大きかった。   
コメント