考古学者・森浩一先生の著書 「京都の歴史を足元から探る 丹後・丹波・乙訓の巻」 で 第一章に紹介されている”弟国”は継体天王が宮を開いた場所であるが、その正確な場所はわかっておらず、現在の乙訓寺のあたりと云われている。 光明寺の紅葉を楽しんだあとは、継体天皇が大和の豪族からの反対に合いながら宮を造った地を巡ることに終始した。 詳しくは追って紹介する。 というのも地図を調べながらとんでもないものを見つけてしまったので、そちらから紹介しようと思うからである。 それは奈良時代に藤原氏の政権を奪還して左大臣にまで上り詰めた橘諸兄の邸宅跡。 歴史の散策をしていて思わぬ遺跡を見つけたときは少なからず感激する。
橘諸兄は、 県犬養(橘)三千代と美努王との間に生まれた。橘諸兄の元の名は葛城王といい、葛城氏の本拠地で育ったと思われる。 聖武天皇の妃・光明皇后とは兄妹ということになる。 藤原不比等の四兄弟が737年に続いて死亡したことにより左大臣となった。その人柄は温厚で人望高く、かの有名な吉備真備や玄坊を重用して政界を握ったお方である。 しかし、最後には藤原仲麻呂に政権を奪われて失脚する。 奈良時代の混乱期に74歳の長寿を全うした諸兄の邸跡は継体天皇が大和入りをした筒城の近辺 山背国・井出にありました。 当時、井出左大臣とも言われたゆえんはここにあります。
見事な竹林に包まれた橘諸兄邸跡で暫くの間佇んでいました
聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子と文武帝との間に生まれた生粋の藤原一族である。しかも不比等と橘三千代との子・安宿姫(後の光明皇后)を正妃に持ち揺るぎ無い藤原氏の一員である。 729年、政敵・長屋王(高市皇子の子で天武の孫)を滅ぼし一族の繁栄を謳歌していたが、737年天然痘が蔓延し藤原四兄弟が揃って死亡したところから、藤原氏に代わって橘諸兄が台頭し左大臣まで登りつめた。 東大寺発願が四兄弟死亡の6年後であり、反藤原氏の意図であったことは重要な意味を持つ。 東大寺の隣には藤原の氏寺・興福寺があるが、これへの挑戦のようでもある。 藤原氏の傀儡でもあった天皇が、藤原権力と戦う意図があったようにも思えるのである。 藤原氏の祖ともいえる鎌足の意思を受け継いだ藤原不比等は持統天皇の息子・草壁皇子、その息子・軽皇子(後の文武天皇)、その息子・首皇子と関わり、天皇系を牛耳ることにより藤原氏の権力を固めていった。 平城京遷都の710年には大和朝廷の実権をほぼ手中にした。 時の天皇は不比等の傀儡の元明天皇(持統天皇の妹・阿閉皇女)である。720年に不比等が死ぬと、息子の武智麻呂、房前が独裁政権を執るが、この時立ちはだかったのが高市皇子の息子・長屋王で、右大臣になっていた。 首皇子即位をまじかに控えて、首皇子の母・宮子の尊称問題(大夫人)で意義を申し立てた長屋王に面子を潰された藤原一族は、呪詛の疑いで長屋王を自殺に追い込んだ。 祝杯を挙げたのも束の間、737年に疫病で藤原四兄弟が死ぬと、橘諸兄は僧玄坊、吉備真備とともに藤原氏を蹴落としていく。 このときに起きたのが藤原広嗣(宇合の子)の叛乱である。広嗣は処刑され、不比等の諸領土は全て朝廷に返上となった。 橘諸兄は県犬養宿三千代と美努王の子で、彼にとって不比等は母を寝取られた宿敵である。 ここに藤原氏への復讐が達成されたとも思えるのである。(744年頃) そして橘諸兄に傾注する聖武天皇は度重なる流浪遷都、東大寺の建立を繰り広げる。
藤原不比等の娘・光明子は仲麻呂とともに藤原政権を立て直したが、結果、夫・聖武天皇を裏切ったことになる。 見事に裏で聖武天皇を操った光明子は高僧・玄坊との醜聞、権力の女という一面のほか、悲田院・施薬院を創設し貧困の人々を救ったという一面もある。 これは懺悔の表れであり、法隆寺の夢殿を作ったとされる光明子の祖先の懺悔の表れと同じかもしれない。 藤原の祖・鎌足や不比等の陰謀を見、長屋王の変の祟りで藤原四兄弟が亡くなり、安積親王の変死が聖武天皇に影響されるかもしれないと怯えた光明子が、貧困の民衆を救おうとした懺悔はある意味当然のことであると思われる。 光明子は正倉院に直筆の「楽穀論」を残しているが、その書体は男勝りで強烈な個性を持っているというが、通称法華寺(法華滅罪寺)を考えると本質が伺える。 法華寺は藤原不比等の館を光明子が寺にしたもので、平城京の拠点ともいえるこの場所を滅罪の場所に選んだ。 光明子の受難と悔悟は藤原四兄弟の滅亡に端を発している。 4兄弟の死は平城京を震撼させたが、それは長屋王の祟りであり、藤原武智麻呂にも祟りの被害が及んだというから、滅罪寺の建立のきっかけとなったはずである。 こうして反藤原派の女人となっていった。 原因は藤原四兄弟の死だけではなく、 聖武天皇の母・宮子が大きく影響している。 宮子は聖武天皇を産むと、藤原不比等の邸に幽閉され親子は37年間会えなかった。 不比等のやり方に疑問を持った光明子は、僧・玄坊と宮子を自分の邸に呼び、宮子が憂鬱の呪縛から解けた。 光明子は姉の宮子の悲運を見るにつけ、また藤原に操られた聖武天皇を思うにつけて、自ら藤原の娘であることから開放され、夫と姉の真の幸福を願った結果が宮子事件であった。
この時俄かに暗躍していたのが藤原武智麻呂の子・仲麻呂である。聖武天皇の唯一の皇子安積親王が若くして急死したのは仲麻呂の毒殺とも言われている。 長屋王の祟りを怯えるかのように不可解な行動をとる朝廷側に対して非難材料に事欠かなかった仲麻呂に対して、聖武天皇は阿部内親王に譲位するという自分の非を認めるかのような行動にでたのが749年である。 この後仲麻呂の兄・豊成が右大臣となり、仲麻呂とともに、橘諸兄を包囲し徐々に追い詰めていくのである。 755年には諸兄の子・奈良麻呂が朝廷に反旗を翻し、そして聖武天皇が崩御する直前の756年、諸兄は左大臣の職を投げ出し敗北した。 聖武天皇が王位を譲り、娘の孝謙天皇が即位すると、光明子は藤原仲麻呂に利用されていく。 藤原仲麻呂は光明皇太后の紫微中台という立場を利用して私的な政治を行うのである。 756年の聖武天皇の崩御後、遺愛の宝物が正倉院に納められると天皇御印が仲麻呂の手に渡り、翌年橘諸兄死去、奈良麻呂の叛乱、大炊王の即位と進み、 仲麻呂は頂点を極めたのであるが、 奈良麻呂の叛乱では430人もの死刑・流罪者を出し、諸豪族の恨みは仲麻呂に集中することになる。 また、藤原一族からも仲麻呂の突出に反感を買うこととなり、ついには孤立していくのである。 そしてついに、764年吉備真備が都から呼ばれ、造東大寺長官に任命されると、恵美勝押討伐軍に参加し、恵美勝押こと藤原仲麻呂は近江西にて討たれることとなる。 乱後吉備真備は称徳天皇のもとで右大臣にまで登りつめ、称徳天皇崩御後まで長きに渡って大きな戦を行うこともなく世の中の平定に勤めた。
天武天皇631-686 軽皇子(42代文武天皇) 683-707
┣ 草壁皇子662-689 ━┛ ┃
持統天皇41代645-703 ┃
蘇我娼子娘 ┃
┣武智麻呂(南家)680-737 ┃
┃ ┣ 豊成704-765 ┃
┃ ┃ ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信
┃ ┃ -796 -808 ┃
┃ ┣ 乙麻呂 ┃
┃ ┃ ┗是公 ┃
┃ ┃ ┗ 吉子,雄友┃
┃ ┃ 大伴犬養娘-764 ┃ 多治比真宗769-813
┃ ┃ ┣ 刷雄?-? ┃ ┃是公娘・吉子 -807
┃ ┣ 仲麻呂706-764 ┃後に恵美押勝 ┃┣ 伊予親王
┃ 貞姫 ┣ 真従,真先 ┃ ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
┃ 房前娘・袁比良女┃ ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
┣房前(北家)681-737 ┃元正の内臣 ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)
┃ ┣ 永手714-771 ┃ 和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)
┃ ┣ 魚名-783 ┃ ┣山部王(桓武天皇)737-806
┃ ┣ 真盾━内麻呂 ┃右大臣 ┃ ┃
┃ ┗ 鳥養 ┗ 冬嗣 ┃ ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
┃ ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察 ┃百川娘・旅子 759-788
┃ ┗葛野麻呂 ┃-818 ┃
┣宇合ウマカイ(式家)694-737 ┃ ┃
┃ ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃ ┃
┃ ┣ 良継 白壁王支持 ┃ ┣ 早良親王(大伴家持派)
┃ ┃ ┣ 乙牟漏 ┃ 白壁王(49光仁天皇)709-781
┃ ┃ 阿部古美奈 ┃ ┣ 他部親王
┃ ┣ 百川 道鏡追放 ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)
┃ ┃ ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃ ┃ ┗朝原内親王779-817(平城妃)
┃ ┃ ┗ 旅子 ┃ ┣ 井上内親王717-775
┃ ┗ 清成 ┃ ┣ 不破内親王
┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃ ┣ 氷上川継782の謀反
┃ ┃ ┣ 薬子-810 ┃ ┃ 塩焼王 大伴家持 坂上苅田麻呂
┃ ┃ ┗ 仲成 ┃ ┃
┃ ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃
┃五百重(天武夫人) ┃ ┣ 安積親王728-744
┃┣麻呂(京家)695-737 ┃ ┃
┃┃ ┗浜成流罪で京家没┃ ┃ 701-756
┃┃ 賀茂比売 ┣首皇子(45代聖武天皇)
┃┃ ┣ 藤原宮子-754 ━┛ ┣ 基皇太子727-728
┃┃ ┣ 長娥子(長屋王妾) ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
藤原不比等 659-720 ┃ 吉備真備 玄坊 行基を重用
┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733
┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
┃ ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757
┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737
┣ 牟漏女王
美努王
栗隅王┛
大俣王┛
難波皇子┛