中川愛さんは今回初めてご一緒させて頂きました
以前から是非とも撮りたいと気になっていたお嬢さんです
ロケ地は鶴見緑地、ラストチャンスの紅葉に彩られた中での撮影です
丹波は機内では播磨、近江についで農業の盛んなところであったことが和名抄に記載の田の面積からわかる。 天皇が即位後はじめて新穀を天照大神に供える儀式が大嘗祭であり、この祭りで用いる新穀を栽培する国の筆頭が近江、二番目が丹波と備中であったという。 その昔、天照大神の朝夕の御食の神にした等由気大神が丹波にあり、伊勢の山田村に移したという。 そこが伊勢神宮の外宮であり、豊受大神として祀られているのである。 考えてみると現在の丹波は米だけではなく、大豆、小豆、松茸、猪肉、栗など多くの食材で有名な産地であり、当時と何らかわっていないのかもしれない。
ところで、平城京の一角に左大臣・長屋王の邸宅があり、その跡地から無数の木簡が出土した。 その木簡から長屋王の妹とみられる竹野女王に送られたとみられるさまざまな食材の木簡が発見された。 竹野女王、まさに丹波にゆかりのある女性であり、ここからも丹波の食材が一級品であったことが伺える。
長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡
竹野皇子二取米三升○余女 竹野王子進米一升大津/甥万呂/ 竹野王子御所進粥米二升受老
堕国の名に由来する竹野媛と竹野女王は関係はないが、竹野媛にゆかりの神明山古墳が丹波にあるらしい。 竹野媛の時代から500年後、豊受大神が伊勢神宮に遷されたのは雄略天皇の時代であり、竹野女王が平城京で優雅な生活を送ったのはそれから200年後のことである。 ほんとうに長きに渡って丹波地方は都と深い交流をもっていたものである。