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第二次大極殿跡

2010年10月28日 | 奈良・飛鳥時代
 総工費180億円をかけて再現された第一次大極殿の東南に隣接して第二次大極殿跡がある。 隣接といってもその距離は400mくらいある。 とにかくこの平城京は広く、老人、妊婦さんのために「ハートフルカート」という電動自動車が用意されているが、私は乗れない。 朱雀門から遷都くんが出没するという交流広場、第一次大極殿を経てここまでくると、かなり疲れてきた。 そういうときに第二次大極殿跡へ到着しているからあまり細かいことは記憶がない。 平城京が完成した715年は聖武天皇のときではなく、文武天皇の後を受けて即位した元明天皇のときである。 意気揚々と平城京遷都と行い、大極殿が完成した年に元明天皇は元正天皇に譲位した。 元明天皇はかの有名な持統天皇の息子・草壁皇子の妃であるから、大津皇子と草壁皇子との内紛に巻き込まれたお方である。 草壁皇子の系統は体が弱かったせいか、元明天皇と草壁皇子の子・軽皇子も文武として即位するものの24歳の若さで崩御した。 そのとき文武の子・首皇子はわずかに6歳であったから、天皇になるには尚早として、元正天皇が即位する。 元正は草壁皇子の子で、文武とは姉弟である。 元正天皇が在位した715年から724年は、藤原不比等による大宝律令の編纂、日本書紀の完成(720年)、藤原不比等の死去(720年)、721年には長屋王が右大臣となり政務を担当した。

 当時藤原不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男の房前は参議であったから、後に藤原氏の陰謀によって起こる長屋王の変は必然的でもあった。 聖武天皇と光明皇后との間に待望の男子が生まれたのは727年11月のことである。 生後一ヶ月で基皇子が皇太子に立てられるという異例の処置からも後継者としての期待が伺える。 しかし病気により728年10月に逝去したのである。 この事態を藤原氏は見逃さなかった。 基皇子の死は長屋王の呪詛によるものだという噂が流れたのである。 729年2月、藤原宇合率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を取り巻くと、長屋王は服毒自殺したのである。 長屋王一族に皇位継承の権利があったことも藤原氏にとっては排除すべき事柄であったに違いない。  それから数年後の737年、なんと不比等の息子4人が天然痘に倒れて死去したのだから、長屋王の祟りと恐れられたのも無理はない。 この間、724年に在位した聖武天皇は遷都を繰り返すのであるが、理由は自分に徳がないことへの自戒である。

 従って715年に完成した第一次大極殿は、741年に恭仁京、743年に紫香楽宮、744年に難波宮へと変遷し、745年にやっともとの平城京に戻ってきた。 そして第二次大極殿が建てられて北側の内裏とともに機能することとなる。 現在東西46m、南北24mの基壇が復元され、南側には朝堂院、朝集殿院、そして壬生門の基壇を一望することができます。

          この通りの北側に内裏、南側に第二次大極殿跡がある                      第二次大極殿跡 

  

                                   第二次大極殿の周りには築地回廊があったという

 
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