言葉を聴いたり、物を見たりしたとき、ほんのたまに、頭の奥の奥の「私」であるところに、解釈やら、理解やら、分析やら、考察やら、すべてを突き抜けて、突如と届く時がある。それはデジタルもアナログも理系も文系も感性も理性も、すべての取捨選択を超えて、やってくる。物に触れた途端に、びゅうーーんと、光のように飛んでくる。その「真」は、揺るがない。それに比べれば、なんと世の中は瑣末な分別に満ちていることだろう。好きとか嫌いとか、正しいとか間違っているとか。無用長舌な議論とか。
私は信じている。私の奥の奥の「私」で感じたもの、いや、それは「感じた」という言葉のカテゴリーの中にも入らないもの。「啓示」のように、それまでのすべての迷いを解いていくものだ。そうだったのだ、これが「真」であったのだと、届いた途端に、すべての細胞に、その「了解」が伝えられ、私は細胞のレベルまで納得する。「ああ、そうだったのだ。」それだけが、「言葉」となり、起立する。「言葉」で理解しようとしていたことは、この一瞬の「了解」のために試されていたことに過ぎない。ゆるりゆるりと周りを辿っていたに過ぎない。
「言葉による思考」は、これに比べれば、取るに足らないものだ。しかし、この了解を得るためには、「言葉による思考」の何万回もの繰り返しがされなければならないのも、また事実だ。たとえれば、湯川秀樹博士が、研究室の机上でなく、木立の木漏れ日を見て原子の在り様を悟ったように、それは、「言葉による思考」の果てに突然、しかし、すでにそこにあることが決められていたようにやってくる。
「言葉」は、これの前では、記号の羅列に過ぎぬが、私にとって「これの完結」は、言葉を使って他者に語ることでしかやってこない。たとえば私が職人であったなら、その仕事振りで「語る」のであろう。絵師ならば絵で、演奏家ならば、音楽で、蕎麦屋なら、一枚のざるで、大工なら家で語る。私の「職」は書くことなので、私は「言葉」でこれを語らねばならない。そうして、私は内の内から、語らずにはいられない。
あなたは、これを、受け取ったことがあるだろうか。きっと、わけもわからず、一事に「ツトメル」人ならば、それを知っているだろう。
そのために、私は、何もかもを見、聞き、嗅ぎ、舐め、触れ、考える。
そうして、ただ、ただ、受け取ったそれを、語る。
私は信じている。私の奥の奥の「私」で感じたもの、いや、それは「感じた」という言葉のカテゴリーの中にも入らないもの。「啓示」のように、それまでのすべての迷いを解いていくものだ。そうだったのだ、これが「真」であったのだと、届いた途端に、すべての細胞に、その「了解」が伝えられ、私は細胞のレベルまで納得する。「ああ、そうだったのだ。」それだけが、「言葉」となり、起立する。「言葉」で理解しようとしていたことは、この一瞬の「了解」のために試されていたことに過ぎない。ゆるりゆるりと周りを辿っていたに過ぎない。
「言葉による思考」は、これに比べれば、取るに足らないものだ。しかし、この了解を得るためには、「言葉による思考」の何万回もの繰り返しがされなければならないのも、また事実だ。たとえれば、湯川秀樹博士が、研究室の机上でなく、木立の木漏れ日を見て原子の在り様を悟ったように、それは、「言葉による思考」の果てに突然、しかし、すでにそこにあることが決められていたようにやってくる。
「言葉」は、これの前では、記号の羅列に過ぎぬが、私にとって「これの完結」は、言葉を使って他者に語ることでしかやってこない。たとえば私が職人であったなら、その仕事振りで「語る」のであろう。絵師ならば絵で、演奏家ならば、音楽で、蕎麦屋なら、一枚のざるで、大工なら家で語る。私の「職」は書くことなので、私は「言葉」でこれを語らねばならない。そうして、私は内の内から、語らずにはいられない。
あなたは、これを、受け取ったことがあるだろうか。きっと、わけもわからず、一事に「ツトメル」人ならば、それを知っているだろう。
そのために、私は、何もかもを見、聞き、嗅ぎ、舐め、触れ、考える。
そうして、ただ、ただ、受け取ったそれを、語る。
しかし、言葉をもってしか、伝えることの出来ないものもあるのではないかと思います。
少なくとも、物を書く立場の人間は、自らの言葉に信頼を寄せることが必要とされるのではないでしょうか。
わたしの場合ですが、先日、うさとさんの記事によって受けた感動を言葉にするのにたいそう時間がかかりました。
言葉で読んだものなのに、わたしの胸に届いたものは、言葉ではない何かでした。
だから、それをわたしの言葉で伝えるのは簡単ではなかったのではないでしょうか。
ああ、自分のことなのに、断言できません...。
「真」は「了解」によってはじめてその存在を顕にすることがらなのかもしれないですね。
「了解」は寸分の狂いのない手仕事によって私を包んでしまうお洋服のような感覚のするもの。
そして、たぶん、言葉を尽くそうとすればするほど、「真」はそれだけ無類の「真」たるものとなってゆくのではないかと。
そんな風に思うです。
最近、とても寒いですね。
今日は、我がサイトの閉鎖のご挨拶に参りました。
今まで短い間でしたが、うさとさんには優しくして頂いてとっても嬉しかったです。
ありがとうございました。
メールアドレスがわからなかったので、こちらに書き込みさせて頂いたことをお許しくださいませ。
これからもうさとさんのブログは、楽しみに拝見させて頂きます(^-^*)
時節柄、どうかご自愛くださいませ。
言葉はまさに「諸刃の剣」と考える。
とくに日本語は微妙なニュアンスで人間関係が狂ってくる。
とくに言葉の知識のない私など、耳で聞き、脳で解釈するまでに時間がかかる。
理解するまでに、さらに時間がかかる。
知識があったとしても、伝える言葉を履き違えると、それも恐ろしい。
自分流にしか理解できない言葉も、それを悟るのにも困難きわまりない。
コメントありがとうございます。「言葉は羅列である」これは厳然たる事実だと思います。その証拠に、外国の人にとっては何の意味も持たない記号なのです。しかし、人は「言葉」でしか考えることができない。「真」は「言葉」を超えたところにあるけれど、たどり着くには、言葉で考え、言葉で表現することしかない。「言葉への信頼」を私は持っているのかを考えてみました。私は信じていないかもしれないと思い当たりました。超能力者なら、言葉を超えたエナジーを送るのにと思うこともあります。しかし、私は言葉でしか伝えられない。だから、言葉は、とても大切で、注意深く、そうして、大胆に使って生きたい。
Kenさんは、こういう、言葉を超えるものを感じた経験ってありますか?私はそれを伝えるために書いているのかもしれません。
「感動」と名づけてくださったんですね。
受け取るもののほとんどは、「感動」です。そうして、「感動」ではないものもあります。わかった瞬間に、「摂理」の一部が目の前に広げられた気持ちになるときがあります。このような循環の中に定められているんだとわかるときがあります。
そういうものは、その場で、その景色をうまく言葉にすることができません。しかし、せっかく受け取ったそれをどうしても書きたい。その時、言葉は本当に無力です。だから日をかけ、言葉に力を持たせていくように少しずつ、書いていくしかないんだろうなって思います。そうして、受け取ったものを忘れてしまわないように、「人」のレベルに変換していきたいと思います。かなこさんが感じてくださったものと同じだといいのですが。
丁寧に体の隅々にあわせて作られたように、どこもかしこも、すべてがぴったりで、でも、窮屈ではない、絶対的なものなのです。
そうして、それがどうして「ぴったり」なのかを表現するのは言葉です。できれば、「ぴったり」な服を書くことにおいて、「ぴったり」なテーラーになりたい。
いろいろ、困ったこともあったみたいですね。
私はいつでもここで待っています。
いつでも、いいえ、いつも、遊びに来てくださいね。お待ちしています。
言葉って、ただ難しければいいわけでも、奥が深そうならばいいわけでもないですよね。
時々、すごそうな言葉に怖気づいたりしますが、
本当は、誰にもわかる言葉で、誰にも「本当」を伝えられることが大事なんだと思います。
怖いけど、怖気ずにです。
私はいつも、「自分流」になってしまいます。お付き合いくださり、ほんとに感謝しています。バルタンさんの言葉は温かいです。
考えてみました。
言語以外の方法による情動の表現は、うさとさんが書かれているように、芸術家や職人によってもたらされるものもありますね。
しかし、そういうものばかりではないと思います。
例えば、愛する人とのスキンシップは、幾千の言葉を連ねるよりも、確実に愛情を伝えることが出来ます。
でも、それは言葉に対する信頼を軽んじるものではないと思うんです。
「情動」とは、違ったところで感じるものかもしれません。
言葉以外で伝えるものって、確かに「愛情」とかいうものがよく言われるものです。それは、「情動」の一部でしょう。しかし、ここで書こうとした「言葉を超えて届いてくるもの」は、「生き物としての真理」「摂理」のようなものです。言葉を用いて考えて、なかなかそれが形にならず、なぜなのかがわからず、そんな繰り返しの中で、あるときヒューッと、すべてがひとつにつながって、わからなかったことの、いろいろな、いろいろな分野の事柄が、ひとつに収束していくときがあります。コレとアレがつながっていて、意味を持っていたなど、気づいても居なかったのに、突然、それらの存在の意味がわかるときがあります。そういう経験のことです。いつだか書いたことがあるのですが、森の中しかわからぬ上り坂を闇雲に登った末に、突然頂上にたどり着き、来た方向、これらかいく方向すべてが一望できるというようなものです。ですから、それは、「情動」とはちょっと違っています。たくさん問題を解いていると、突然、考えていないのに、答えの場所が光って見えるときがある。そんなことです。毎日うっても、うまいそばが打てないでいて、どうしたらいいのか考えあぐねながらも打ち続けるとある日突然、コレだったのだとわかる。それは論理とかではなく、もう圧倒的な絶対さでわかり、自分のものとなる。そういうことです。
「言葉は信頼に足るか」
私の受けた言語学教育の中で、言語を考える前提は、「言葉はあくまで道具であり、絶対ではない」というものでした。ですから、私はいつも、自分の思いを絶対的に伝えられぬものとして言葉を捕らえています。その意味で、私は言葉を信じてはいません。信じられぬものとしての言葉の中でいかに伝えていくのかというのが、私のすべての前提です。人が作り出した言葉の中でどれだけ、私は伝えられるのか、それがいつも考えていることです。
あなたは、本当に「言葉」を信じていますか。自分の言葉にできぬレベルの気持ちが、少なくとも自分に向かって、的確に表現できていると思いますか。わたしは「否」です。「否」だからこそ、私は、「書く」のです。ほんのちょっとでも、「ぴったり」なところを探して、さまよって書いています。
本当は、「言葉への信頼」ということが私にはよくわかりません。言葉の何を信じるのでしょう。言葉のどんなところが信頼できるのでしょう。「信頼できる言葉」だと感じることはあるけれど、それは言葉への信頼ではないですものね。
私は、中学生になったころから、言葉のことばかり考えていました。ずっと、言葉を使うこと、言葉を考えることに、ずっと、そして今も、私は夢中です。そのころから、大学で学ぶのは「言葉」以外にはないと思っていました。「真剣」での対峙です。気を抜けば、斬られかねないなという気持ちです。でも、それと、「信じている」のは、違いますものね。
おお、また、暴走してしまいました。失礼いたしました。