神を信じる意味というのは、神様の眼で自分を見てみるという練習なのだろう。神がいるとかいないとかは問題ではないと思う。
自分はいつも直線でしか自分や周りを見ることが出来ない。Iがamであり、Youがareであり、それ以外の他者は、isでありという自分の視線。私は(am)で、特別なあなたは(are)だけれど、それ以外は一緒くたの(is)。たくさんいれば(are)であるという視線である。(I)である私は、いつも(you)を自分の輪の中に入れ、一直線の視線を結ぶ。そうして他の(is)の人を輪の外に置く。いつも私はあなたへと向かってしまう。輪の中にいるあなたが私を見てくれていなければ、この輪は意味のないものになり、(I)も意味を見失う。それを、神が見たらどう見えるだろうと考えてみようとするところに意味がある。高い高いところにある神の眼で見れば、すべては(is)である。そう考えて、神の眼で自分を見れば、随分、楽になるところがある。自分をも含めて俯瞰したら、自分が誰かのためとか思ってしていることも、結局は「自分がしたいと思ったこと」であり、その意味で、「自分のためにしている」ことであるということが分かる筈だ。「自分のためにしていること」なのであるのだから、その思いが伝わろうが、届かざろうが、それは「私の悲しみ」にはなっても、「相手の責」ではないのだ。輪はいつでも、違う場所で結べるのだ。
折に触れ、神のいない時代というものを考えることがある。神が見えない時代といってもいいだろう。長い間、人間は神を心に持っていた。それは、神が存在するとかしないとかということではなく、そう思って生きていくのが生き易かったからだろう。神のようなものを考えずとも、きちんと生きていける人はそう多くはない。しかし、今の世の中で神を信じることは難しい。神の眼で見るという練習の場を失った私たちは、[I〕と〔you]に縛られ、そのくせ迷子のようだ。深夜の店に人は溢れ、部屋は散らかされたままになり、職を持たず、今日の享楽のみを求める。報われぬ好意は報復と変わる。
私たちは俯瞰の眼を持てなくなっている。「罰が当たる」とか、「お天道様に申し訳ない」とか、そんな言葉はかび臭くなってしまっている。知恵なき貧しき人という生き物が、この世に生きながらえる杖であったはずの「信仰」が見えなくなっている今という時代。私たちが持つべきものは何なのか。聞きなれた「神」が見えないならば、何を「神」とすればよいのか。
知恵のない人、杖のない人が救われぬ流れが加速していると、私には感じられてならない。そうして、知恵や杖を持った人の一部が、持たざる人を利用し「持たぬことが悪い」といって憚らぬ流れが渦巻いている。
楔を打ち、土嚢を積まねば、堰は切れかけている。それはあまりに悲観的な考えに過ぎるのだろうか。
自分はいつも直線でしか自分や周りを見ることが出来ない。Iがamであり、Youがareであり、それ以外の他者は、isでありという自分の視線。私は(am)で、特別なあなたは(are)だけれど、それ以外は一緒くたの(is)。たくさんいれば(are)であるという視線である。(I)である私は、いつも(you)を自分の輪の中に入れ、一直線の視線を結ぶ。そうして他の(is)の人を輪の外に置く。いつも私はあなたへと向かってしまう。輪の中にいるあなたが私を見てくれていなければ、この輪は意味のないものになり、(I)も意味を見失う。それを、神が見たらどう見えるだろうと考えてみようとするところに意味がある。高い高いところにある神の眼で見れば、すべては(is)である。そう考えて、神の眼で自分を見れば、随分、楽になるところがある。自分をも含めて俯瞰したら、自分が誰かのためとか思ってしていることも、結局は「自分がしたいと思ったこと」であり、その意味で、「自分のためにしている」ことであるということが分かる筈だ。「自分のためにしていること」なのであるのだから、その思いが伝わろうが、届かざろうが、それは「私の悲しみ」にはなっても、「相手の責」ではないのだ。輪はいつでも、違う場所で結べるのだ。
折に触れ、神のいない時代というものを考えることがある。神が見えない時代といってもいいだろう。長い間、人間は神を心に持っていた。それは、神が存在するとかしないとかということではなく、そう思って生きていくのが生き易かったからだろう。神のようなものを考えずとも、きちんと生きていける人はそう多くはない。しかし、今の世の中で神を信じることは難しい。神の眼で見るという練習の場を失った私たちは、[I〕と〔you]に縛られ、そのくせ迷子のようだ。深夜の店に人は溢れ、部屋は散らかされたままになり、職を持たず、今日の享楽のみを求める。報われぬ好意は報復と変わる。
私たちは俯瞰の眼を持てなくなっている。「罰が当たる」とか、「お天道様に申し訳ない」とか、そんな言葉はかび臭くなってしまっている。知恵なき貧しき人という生き物が、この世に生きながらえる杖であったはずの「信仰」が見えなくなっている今という時代。私たちが持つべきものは何なのか。聞きなれた「神」が見えないならば、何を「神」とすればよいのか。
知恵のない人、杖のない人が救われぬ流れが加速していると、私には感じられてならない。そうして、知恵や杖を持った人の一部が、持たざる人を利用し「持たぬことが悪い」といって憚らぬ流れが渦巻いている。
楔を打ち、土嚢を積まねば、堰は切れかけている。それはあまりに悲観的な考えに過ぎるのだろうか。
信じている人は信じていることが本当なことなのだろうと思います。霊界もしかり。やはり、いかに信じるのかということと、自分とは違った人といかに接していくことなのだろうと思います。おっしゃるように、死なないとわからないことなので、議論の対象にはならないと思います。でも、「信じる」ということについてはこれからも考えていきたいと思っています。
あるサイトで霊界の存在も100%信じていると書き込みましたら、物凄い反論が来ました。しかし、死後しか分からない問題ですから・・・
見えないものを信じるのは難しいことです。自分が信じていることが正しいのかを確認することも難しいからでしょう。時に私も偶像を信じているのかもしれないと迷います。何を信じていくのか、それを探すことが私にとっての生きることの意味かも知れません。
ようこそおいでくださいました。
こうやってきてくださって、コメント残してくださって、本当にありがとうございます。
↑の通り、放漫な私ですが、ビッシビッシ、鍛えてやってくださいませ。どうぞ、よろしく。
はい、放漫のほうでした。
山登りもしていないので、足手まといになる私のままです。う、反省。
うん、見た見た。本当は「狐の嫁入り」と「にわか」を見に行ったんだけど、前夜に終わっていたようです。ざんねんなり。
いつもの癖で、本文を先に書いてそのまま送信をクリックしてしまいました。今改めてここを見に来て、初めて気付いた次第です。
典型的なO型で、いつもこういうポカをやらかします。
あちらに足跡を付けなかったのは、折角の記録を私が破っては...と思ったもので。
このとおりの小心者ですが、これからも宜しくお願いいたします。
ちなみに私は貧乳です(-_-;)
山登りしてまっか?神野美歌に会えましたか?
難しかったですか?
本人はいたって単純ストレートな人間なんですよ。
私も豊満な胸の真ん中に神様がいます。最近はダルダルもオッケイと言う囁きになかなか勝てないんですけどね。
うさぎさんつながりで、mixiからやって参りました。
よろしければ以後お見知りおきを。。。<m(__)m>
正直、難しくてぶっ飛びました。
で、私はかねがね家族に豪語しています。
「神は私の中に在る!!」
イヤ、早く言えば単なるジコチューなんですが。。。
泣けるなあ、
でも、
GOといわれると、暴走するのだね、あたし。
うさとさんの才能が私なんぞに、影響を受けてはいけません。
で、[どこがわからんか、わからんのです。]
go! go! うさと!
私は自分が神様を信じているかどうか分かりません。でも、ある意味で、ののさまは必要だと思ってます。性善説とか、性悪説というのは考えたことがありません。心の中は、白い人と黒い人が戦っています。だから、be~ingです。
ののさまが心の中にいなかったら、人は何を目安に決断をするのでしょう。それが私の今考えていることです。
思っていることはあるのですが、どのように書けばその思いが少しでも伝わるだろうかと。分かりにくいものになってしまいました。ごめんなさい。もう一度、出直して書こうと思います。どんどん、「ここが分からん!」って教えてくださいね。
神は自分の心の中にある。これが性善説、良心が行いにストップをかける。でも時々神はisを見てるのではなくareを見ているから今この瞬間は見えてない筈だ。ごめんねをする自分がいる。これを「魔が差したといって逃げる」と自分に再度正当化させる。許しては反省しの繰り返しだから、いつまでも親にとっては子供だからそれを見て現在進行形なのである。
まだ、わかりません。
私の世界には、 I しか、存在していないかも。