うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

雨夜の弁明

2006年11月20日 | ことばを巡る色色
ある人々から言われた(それが複数人だったことも衝撃に輪をかけているのだけれど)
「あなたは強いからそんなことを言うが、他人にそれを求めてはいけない。あなたはあなたの強さで弱い人を切り捨てている。あなたの基準で人を論じてはいけない。君のような考え方が勝ち組、負け組といった世の中の二極分化を促すのだ」
この言葉に対し、私は弁明をしたい、そう書き始めた前回の記事である。
彼らは私の何をして、「強い」としているのだろう。確かに、二十歳前は、「強いと思われているけれど本当は私って弱いのよ」みたいな、「本当に私の弱さをわかってくれる人はいつ現れるのでしょう」みたいな、気持ちはあった。それ故に無要に強がって見せたりすることもあった。「誰も弱い私をわかってくれない、なんて可哀想な私」ってヤツだった。そう思ったのは、若気の至りであり、今はそんなヒロイックなこと被害妄想なことは考えない。注目されない自分であってももう気に病んだりしないだけ私は歳を重ねた。人はみんな自分のことに忙しく、よほど惚れた相手以外の他人は、本人が思っているほど意味を持ってはいない。ほら、自分だってそうだ。相手がどんな服を着ていようと、何を持っていようと、ちょっとの間は気になったり、変なのって思ったり、凄い!って思ったりしても、次のごはんを食べたら忘れてしまうような些事なのだ。だから相手が自分のことを思ってくれなくっても、注目してくれなくっても、アイミタガイってものだ。自分は相手のことをのべつ考えているわけではないのに、自分のことは考えてもらおうなんて、図々しい考えだと思っている。ただ、それでも私の中に消えずにいる、誘惑に弱いことや熱しやすく冷めやすいことや、褒めて褒めて!やらの気持ちは、弱い恥ずべきことだと思っている。そう、その程度の意識しか私にはない。そうして、他人にも強かったり弱かったりするようなことを求めてはいない。だのに、あの人々にとって、私は、私の独善で「弱い人」を切り捨てていると見えている。「弱いやつは自己責任。」と私が思っていると見えている。傲慢に見えているのだろうか、自らの判断基準で「ちょいとあんただめじゃん」と言っているように見えているのだろうか。自分では随分控えめに生きているような気がしているんだが、そう思っちゃっていること自体が「強者」っぽいのだろうか。
確かに私は「努力のないバカは罪悪だ」と思っている。それは、「バカ」であることが周りを不幸にするからである。契約書の読めない人は知らぬうちに保証人になったりして、家族を不幸にする。世の中には交渉次第で100万円の借金が、101万の返済で済むこともあれば、100万返しても元金が減っていないということもある。同じ保険料を払い、税金を納めていても、苦しい生活の人もいれば悠悠自適の人もいる。ほんの数年の大変な時期を過ぎれば、今泣き喚いている赤ん坊も話の出来る少年になるということを想像できれば、辛い今が乗り越えられる。それを考えられない人は、「バカ」だ。そういう人は、本当に愛さねばならない人、本当に愛してくれる人を不幸にする。だから、それは罪悪だ。簡単な+-×÷が出来れば、それはわかることだ。微積分まで出来なければならないわけではない。ほんの少し、人生とまっすぐに向かっていこうと思えば、どこかに必ず道はあるはずだ。問題なのは、ずっと考えるということをしてこないと、考えるということが何かがわからなくなってしまうことだ。「考える」ということは才能やDNAではなく、習慣であり訓練である。「私には才能がない」という言葉の7割程度は言い訳であり、怠慢であると思う。だって、そんな自分のあずかり知らぬところで自分が決められているなんて、嫌だ。人は、それを変えていくために送られてきているのだと思う。そう考える私は、「才能」があるからだ、とあの人たちは思っているのだろうか。でも「あの人には才能があり、私にはないから」と考えてしまっては、自分が余りに可哀想ではないのだろうか。自分を作るのはほかならぬ自分でしかないのに、その自分から見限られてしまったら、あんまり自分がかわいそうだ。それに、人はちゃんと変わっていけるものだ。天与の物が自分を作るのではない。自分を作るのは自分でしかない。たとえ今は遠くかすんでその輪郭さえはっきりしなくても、毎日続ければ必ず、それは少しずつ近づいてくる。それは否定するのは、怠慢でしかないと私は思う。はっきり自覚すべきだと思う。出来ないのは、才能がないからではなく、自分がそれに対して誠実な努力を続けなかったからだということを。人生は信じるに足る物だと思う。絶対にそう思う。それは、私の過去の努力が報われたからさとあの人たちは思っているのだろうか。そう言われれば返す言葉がないけれど、そういう前に一体どれだけのことをあの人たちはしたのだろうか。それとも、「彼は才能がないからそんな努力を求めるのは無理だよ」と思っているのだろうか。そうならば、それは思い上がりだ。人の可能性は限りない。人は自分のため、そうして自分が守りたいもののために何がしかをする自由を持っているし、それを見限り、単なる庇護の対象と見ることは許されない。弱き者を助けるとは、その人の生きる道を知らせることだ。その人がその人の力でそこに辿り着けるように少しだけ伴走することだ。恵んでやることでも、哀れんでやることでもない。その人の力を信じ続け、道標になることだ。
人は今与えられている分の中で粛々と、安らかに暮らしていくべきだと思う。そうして、「分」は広げられ、高められていく物だと思う。弱いものは弱いもののままでいてはいけない。自分より弱いものを守るため、自分の信じる美しいものを守るためにも、強くなるべきだと思う。強くなるための努力をするべきだと思う。そうしてその努力は、いつでもどこからでも可能だと思う。
こういう考え方って、冷たいんかなあ。そうだよね、ずっと、そう言われてきたかもしれない。そういうのって、強(コワ)い考え方だってね。でも、だからって、今弱い人を「駄目さ」っては思ってないんだけどなあ。弱いってことは厳然たる事実なんだから、それをどうこうは思わない。ただ、それを変えていこうって思わなければ、悲しいと思う。言い訳の中にもぐりこんでしまっていると思う。弱い人は弱いからこそ、強くなる権利がある。そうして、切り開いていく意味があると思う。明日を信じるべきだと思う。そのために、とにかく何かしらを、とにかく学んでいくべきだと思う。そうでなければ、不幸は伝染し連鎖する。今は駄目でも、きっときっといつかは変わっていける。人はそのために送られてきたんだから。
何も持っていなかった。たぶんね。あらかじめ奪われていた。でも、一つ一つの加減乗除をきちんと計算し、証文の一句一句を丁寧に読めば、きっと明日は違う日になる。「出来ない」と「面倒くさい」をごっちゃにしてはいけない。きっと、出来るよ、出来る日は来るよ、と私は思っている。そういうのって強者の論理なのかなぁ。
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8 コメント

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日本には四季がある (けんちゃん)
2006-11-20 09:24:39
最近のうさとさんはわかり易い。長文力には恐れ入る。でもすらすらと読める。負けず嫌いさも伝わってくる。
「類は友を呼ぶ」で私はやってくるが、同じ文を読んでも捉え方は十人十色。それが世の中複雑化させ一筋縄ではいかない要素だ。
常に熱い赤道直下の国々、極寒の高緯度の国々の人々には無い温帯の感性が日本にはある。どちらにしても受け入れ難きを受け入れる包容力は強さから生まれるのだろう。
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やさしい強さ? (bube)
2006-11-20 09:57:17
芯がある=強さ?
自己があるってことかなぁ?
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亜熱帯 (家主うさと)
2006-11-20 15:38:30
地球温暖化により、近い未来に日本も亜熱帯地域になるといわれていますね。こうやって「冷たい」と取られてしまうのは、逆に考えが亜熱帯だからだろうか。っと思ったり。
夏は伸び冬は寒さに耐える日本の樹のようになりたいものです。
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噛んでみる (家主うさと)
2006-11-20 15:39:56
サトウキビなのか、タデなのか。
噛んでみて味わってみて。
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ずっとかんがえていたのだけれど (きく)
2006-11-21 01:58:35
うさとさん、こんばんは。
うさとさんのことを強者だという方は「強者・弱者」「勝ち組・負け組」という枠組みの中で物事を判断しているんじゃないなかなと思っています。
うさとさんが書かれていることは、そういった枠組みに囚われることから抜け出よということだと思う。
それは、いじめの現場から、まずは逃げていいんだよと子どもたちに伝えるように。
ものごとは、いわゆる「強者」の側からは変えられないのだということを、うさとさんはよくご存知なのだと思うです。
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変わらぬ頑固さ (けんちゃん)
2006-11-21 07:05:37
>きくさん
世の中変わるのが恒常、なのに変わらない変えられない部分の自分がいる。
絶えず視点(0ポイント)は揺れ動いているが相変わらず枠組みの範疇で生きている。差別の蔑視も自分の位置を確認して安心しようとする試みから生まれている。
「強者」の側からは変えられない部分を大切にしたいが単なる頑固であってはならない。いつも自分自身に言い聞かせていることです。
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 (家主うさと)
2006-11-21 14:09:26
きくさん、こんにちは。
枠の中で考えている人と、その外で考える私とは、すれ違っているのかもしれません。
話している言葉も違っているのかな。
でも、それでも、どこかでわかってもらわなければ。どうすれば、いいんだろう。
強者の側からは変えられないけれど、強者の力は変えるためには手っ取り早い手段だよね。強者が、その昔の強者でなかったところから発想してくれればいいのだけれど。
ありがとうきくさん。考えてくださって。
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0ポイント (家主うさと)
2006-11-21 14:12:41
けんちゃん、私からも一言。
変えなくてはならない物はある、でも変えてはならないものはある。
それが視点の違いで逆転してしまう。同じことを考えているようで、全く逆の行動、主張となってしまう。
まず、立ち戻る。何を捨ててはいけないか、何を取り違えてはいけないか。
そう、問うことだ。自分の発想に安穏とするのではなく。自分の過去の遺物ににこだわるのではなく。
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