うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

べらんめえ鏡花

2006年11月24日 | お出かけ
桑名は鏡花が「歌行燈」のモデルとした地。鏡花の代表作といえば、やはり「歌行燈」と「高野聖」なのだろうけれど、私の記憶に二つの代表作はあまり重くはない。ずっとずっと前、鏡花ばかりを読んでいた時期があった。その頃は、「胡乱」な物に取り付かれていて、高畠華宵や玉三郎やらを見ていた。その中でも好きだったのは、「婦系図(義血狭血)」「滝の白糸」「夜叉が池」「天守物語」
それらの中の水芸の御姐さんやら、本当は池の妖怪やら、天守に住み着いたもののけの姫やらは、みんな、苦境に立つ鉄火肌の御姐さんだ。御姐さんを苦境に追い込んでいる者は、肩書き持ちのオジサンたち。オジサンたちは自分の肩書きや財産や常識を守るために御姐さんに無理難題(御姐さんたちにとってはそうだ!)を突きつける。もののけと人間は一緒になってはいけないとか、恩師と女とどっちを取るのだとか、貸した金をたてに自分の女になれとか、本当に今も昔も偉いオジサンたちは困った人たちなのである。金と権力と建前があれば、なんでも自由になると思っている。

君たち、おい、いやしくも国のためには、妻子を刺殺(さしころ)して、戦争に出るというが、男児たるものの本分じゃ。且つ我が国の精神じゃ、すなわち武士道じゃ。人を救い、村を救うは、国家のために尽(つく)すのじゃ。我が国のために尽すのじゃ。国のために尽すのに、一晩媽々(かかあ)を牛にのせるのが、さほどまで情(なさけ)ないか。洟垂(はなったら)しが、俺は料簡(りょうけん)が広いから可(い)いが、気の早いものは国賊だと思うぞ、汝(きさま)。俺なぞは、鉱蔵は、村はもとよりここに居るただこの人民蒼生(じんみんそうせい)のためというにも、何時(なんどき)でも生命を棄てるぞ「夜叉が池」

天下国家やら、世界平和やらを仰々しくうたいながら、その実、「わたくし」にヨクヨクとしている。そういうオジサンたちに鏡花の中の御姐さんたちは、耐える。忍ぶ。それはいとしい人を守るためであり、お天道様に顔向けできないことはしたくないからだ。なのにオジサンたちはこれでもかと御姐さんを苦境に追い詰める。堪りかねた御姐さんは、とうとう言ってしまう、叫んでしまう。

鷹は第一、誰のものだと思います。鷹には鷹の世界がある。露霜の清い林、朝嵐夕風の爽かな空があります。決して人間の持ちものではありません。諸侯(だいみょう)なんどというものが、思上った行過ぎな、あの、鷹を、ただ一人じめに自分のものと、つけ上りがしています。貴方はそうは思いませんか。「天守物語」

あんた達の大切にしている物はなんて汚いのでしょう。それを臭い口から言われたって、私はあんた達の思うようにはならない。あんた達がもののけだ、貧乏人だと思うものの中にどれだけ清く美しいものがあるかあんた達には、何にもわかっていない。そんなお人たちになぜ私の大切な物を汚されようか、べらんめえ。とね。
ぱちぱちぱち。よぉぉく言った、御姐さん!  拍手喝采だ。
警官や村長や判事や金持ちやは、鏡花の御姐さんの前では襤褸のようなものだ。名もない御姐さんや生首に舌なめずりするもののけの姫様は、彼らよりずっと「ひと」であるなあ、と私は思ったものだ。
オジサンたち(そうして心はすっかりオジサンのオバサンオネエサンオニイサン)は今日も談合を繰り返し、情報操作をし、とりあえずメディアの前では形ばかり頭を下げ、「遺憾だ」と他人事のように言い、世のためという名の売名、アホな少女を買い、料亭でこっそりお話をし、接待したりされたりしちゃっているんだろうか。
おじさんの青年の頃の志はどこに行っちゃうんだろうか。その初めは清かったであろうに。

栄燿(えよう)が見せびらかしたいんだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値(ねうち)をつけさせて、それに従うべきものじゃない。(近寄る)人は自分で活きれば可(い)い、生命(いのち)を保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉とてもその通り、手箱にこれを蔵すれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与うる時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。「海神別荘」
                             青空文庫
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