うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

くみしくくがつ

2007年09月03日 | ことばを巡る色色
とうとう8月の更新をせずに9月を迎えてしまいました。
毎度、「再開ご挨拶」をしている不甲斐なさに、我ながら情けなや。さて、さて、9月。体脂肪率がどんどん年齢に近づいてきた重い腰を上げねば。
8月は毎年慌しいのだけれど、今年はそれを言い訳に、何にもしなかった。とりたてて悩むことも辛いこともないのに、でも、何にもしないでいると仮性鬱になってしまうようだ。書いて、語って何になるのさと、やさぐれていた。
さあ、9月がやってきた。さあ、あたしよ、美しいものを見に行こう。

「美」を見るということは、邪心の無さを見極めるということである。邪心の作り手のものは、その厭らしさうるささが自ずと物に現れてしまう。恐ろしいことに、邪心のある人の持ち物は、その邪心が物にも現れてしまう。
「邪心」は「われが」と思う気持ちである。勝ち負けであり、○×であり、数字でかかれた物である。いい物を作りたい、いい物を持ちたい、という心は邪心である。しかし、それは無邪気になったとき、邪心を越える。無邪気にそう思えたとき、美に通じる。かわいげが生まれる。
作るとは、作れないことを知ることであり、持つとは、持てないことを知ることだろう。それを知ったとき、世界と一体となる際に行くことができる。それは、高い技術を持ちながら自らに奢らず、委ねることであろう。目利きはそれとの対峙である。
自然のものの何もかもが美しいのは、邪心がないからである。この形になろう、この形で魅了しようという厭らしさがないゆえに、美しい。
だから、美は、恐ろしいものである。作り手の、受け手の心を透かしてしまう。
知らぬ人は安穏である。知らぬ人は、知らぬことを知らない。知らぬことを見透かしている人がいることを知らない。

本日、日下部邸前を通りました。ブルーシートに覆われ、おいたわしや。遠いところに行ってしまうんだね。
コメント (8)
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