春がやってきたのに、身の回りが落ち着かず、随分と記事が書けない日が続いてしまった。ピアノのお稽古のように、文を書くと言うのも、しばらく間が空いてしまうと、なかなかチャンネルが合わないものである。という言い訳をしながら、今日は腕慣らしということで散漫な内容になってしまうかもしれないけれど、ご容赦を願いたい。
パソコントラブルだけでなく、他にも降ってわいた処理事項や、たまりに溜まった事務仕事があるんだけれど、その間に、ちゃっかり美濃仁輪加と多治見の陶祖祭りに出かけたことは、前にも書いたとおりである。
美濃仁輪加は、美濃祭りの宵に、町の若衆が神楽やお囃子を奏でながら廻り、辻でコントのような落ち話を角付けするものである。昨今ではほとんど聞かなくなった美濃弁で、社会風刺がなされる。
青年の年頃にこのような、地域での伝承を続けていくということは、美濃の人、一人一人のその後の人生に大きく影響を及ぼすんだろうなあと、強く思った。それを経験したこととしないことでは、人生はまったく違うさ。外には明らかにならなくとも、絶対的な違いだ。間が抜けているのか、絶妙なのか、微妙なはざ間でなされる掛け合いは、若い人たちの間に飄々と刻まれるんだろうなあと思う。
鼓、太鼓、横笛でお囃子とともに若衆はやってくる。辻の陰からひゅるひゅるとやってくる。ぼんやり灯った提灯の車を引いてやってくる。ひと時の笑いをもたらして、また次の辻に流れていく。
春祭りの季節だ。
夏の祭りには、気だるい、惜別のうら寂しさがあるが、春祭りは、新しき清浄なる物を迎える祭りだ。
冬の間に積もった古いもの、死んだものを、
火で焼き清め、若水で洗い清める。
もう一度生き返るためにである。
昔々の、私の血の中に流れる血を、同じように持っていた人は、春の祭りをしたのではなかろうか。
誰かに聞いたとか、何かで読んだとか、そんな記憶はないのだけれど、
春の祭りを思うとき、
不浄なものを全て、ま白な灰にして、清め清めて、新しきものとしていこうとした
そんな太古から現在までの、この国人の像が心のどこかから、沸いてくる。
それを心の中で結んでいるということが、、私がこの国に生まれてきた「意味」であろう。
あなたもそんな「像」を、春に結ぶことはないのだろうか。
この国に暮らすということは、不浄なるものを浄めながら、生きていくということではないのだろうか。
それは、焼き尽くせば、洗い流せば、全てが許されるという楽観的なものではなかったはずだ。
いつもわが身の不浄を振り返ろうとする気持ちを持ち続けているということだ。
それがこの国の良心であり、品格ではなかったのだろうか。原罪(Sin)とは異なっているだろうが、私たちは(浄める民)として、私たちを考えていくべきではないのかと思った春の宵だった。
春は、早蕨、若水、早乙女、早苗。すべて全てが新しいね。
パソコントラブルだけでなく、他にも降ってわいた処理事項や、たまりに溜まった事務仕事があるんだけれど、その間に、ちゃっかり美濃仁輪加と多治見の陶祖祭りに出かけたことは、前にも書いたとおりである。
美濃仁輪加は、美濃祭りの宵に、町の若衆が神楽やお囃子を奏でながら廻り、辻でコントのような落ち話を角付けするものである。昨今ではほとんど聞かなくなった美濃弁で、社会風刺がなされる。
青年の年頃にこのような、地域での伝承を続けていくということは、美濃の人、一人一人のその後の人生に大きく影響を及ぼすんだろうなあと、強く思った。それを経験したこととしないことでは、人生はまったく違うさ。外には明らかにならなくとも、絶対的な違いだ。間が抜けているのか、絶妙なのか、微妙なはざ間でなされる掛け合いは、若い人たちの間に飄々と刻まれるんだろうなあと思う。
鼓、太鼓、横笛でお囃子とともに若衆はやってくる。辻の陰からひゅるひゅるとやってくる。ぼんやり灯った提灯の車を引いてやってくる。ひと時の笑いをもたらして、また次の辻に流れていく。
春祭りの季節だ。
夏の祭りには、気だるい、惜別のうら寂しさがあるが、春祭りは、新しき清浄なる物を迎える祭りだ。
冬の間に積もった古いもの、死んだものを、
火で焼き清め、若水で洗い清める。
もう一度生き返るためにである。
昔々の、私の血の中に流れる血を、同じように持っていた人は、春の祭りをしたのではなかろうか。
誰かに聞いたとか、何かで読んだとか、そんな記憶はないのだけれど、
春の祭りを思うとき、
不浄なものを全て、ま白な灰にして、清め清めて、新しきものとしていこうとした
そんな太古から現在までの、この国人の像が心のどこかから、沸いてくる。
それを心の中で結んでいるということが、、私がこの国に生まれてきた「意味」であろう。
あなたもそんな「像」を、春に結ぶことはないのだろうか。
この国に暮らすということは、不浄なるものを浄めながら、生きていくということではないのだろうか。
それは、焼き尽くせば、洗い流せば、全てが許されるという楽観的なものではなかったはずだ。
いつもわが身の不浄を振り返ろうとする気持ちを持ち続けているということだ。
それがこの国の良心であり、品格ではなかったのだろうか。原罪(Sin)とは異なっているだろうが、私たちは(浄める民)として、私たちを考えていくべきではないのかと思った春の宵だった。
春は、早蕨、若水、早乙女、早苗。すべて全てが新しいね。