悠々time・・・はなしの海     

大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

「夢」はどこから生まれてくるのか

2010-03-01 23:52:47 | 自然科学・技術
今日、岩波書店の「図書3月号」が届いた。何十年も前から定期購読しているが、B5版の小さな雑誌で、岩波らしくとても難しいが、同時にとても為になる本である。雑誌と言ったり本と言ったりするのは、この小冊子の内容と品格が私にそう言わせるのであるが、購読料は1冊100円、年間購読で1000円。733号だから単純計算で60年ほどになる。

今月号の執筆者の中には、大江健三郎、丸谷才一、赤川次郎、片岡義男、高橋睦郎などがいる。本の出版広告が三分の一を占めるとはいえ、小さい文字を目を細めて読めば、必ず頭が良くなるか、知識が豊富になるか、頭が痛くなるのである。50年ほど前の学生の頃は、岩波と言えば堅くて難しい学術書の代名詞みたいなもので、難しくて理解できなくても小脇に抱えて颯爽と街を歩いたものである。しかし今や漫画本が全盛となり、頭の中でじっくり考える本は売れない時代となった。私は岩波とは縁もゆかりもないし、学生時代のノスタルジアに浸っていても前に進まないので、宣伝ぽい話はこのくらいにして本題に入りたい。

3月号の巻頭で、国文学者の兵藤裕己氏が面白いことを書いている。
自分が誰かの夢を見るのは、自分がその人のことを思っているからではない、のだという。相手が自分のことを思っていてくれるから夢を見るのだというのである。そう言われれば、クシャミをすると、どこかで誰かが俺の、あるいは私の噂をしている、とよく言うが、これと通ずるものがあるのかも知れない。同氏は、夢のお告げ、というのも神仏がこちらを思っていてくれるからなのだ、という。もっとも同氏がそう思っているといっているのではなく、中世以前、あるいは前近代の社会ではそのように考えたのだという。

さらに興味深いのは、「昔」の記憶は自分の頭の中にしまい込まれているわけではない。それはふとした弾みで、向こうからやってくるものだ、という。なぜなら、「むかし」という言葉の語源は「向か」と方向を示す接尾語「し」の複合語なのだというのである。

なるほど、そういうことなのか、と合点した。私たちは「昔は良かったな~」という言葉をよく使うが、その頃のことが頭の中にしまい込まれているのではなく、現在のあまり良くない状況との比較で、向こうからその頃の記憶がやってきて「今より良かった」と言わしめるということであろうか。

夢の話に戻ろう。新聞の読者投稿欄「声」にこんなことが書いてあった。
カトリックの幼稚園に通っているいたずら盛りの娘が、寝る前にベッドの上にちょこんと座って、「今日も一杯いたずらをしてママにしかられてしまいました。罪深き○○子をどうかお許し下さい」と言ってお祈りを捧げていた。そのお祈りを聴いた両親は、笑いをこらえながら、これじゃ叱れない、神様相手じゃ太刀打ちできない、という内容だが、私も経験あるが、これは内心、親として至福を感じる場面である。最後に次のように書いてあった。「家族が笑う材料を娘はいつだって提供してくれる。今日もまたいい夢が見られる、そんな気がした。」と。

この場合のご両親の至福の言葉、「いい夢が見られる、そんな気がした」という夢は、自分の心の中の喜びが形を変えて自然に生まれ出てくる夢であろうか、あるいは幸せと思う自分の心がいい夢を引っ張り込むのであろうか、あるいはいい夢が「向こう(むかし)の方」から勝手にやってくるのであろうか。いずれにしても、この場合のいい夢の内容は、確実に、娘と両親が「むかし」どこかでむつまじくしていた光景がよみがえってくるか、あるいは、娘が楽しそうに遊んでいる「むかし」のどこかのシーンか、あるいは「むかし」の光景ではなく、将来あるかも知れない、いや、あってほしいと願う至福の光景、のいずれかであることは想像がつく。夢のまた夢、には決して、してはならない、いや、してほしくはない。

夢には寝ている間に起こる知覚現象を通して、現実ではない仮想的な体験を体感する現象を指すという説がある。しかし過去か直近かは別として、現実にあったことが、夢のなかで形を変えて、再び何かを語りかけている、ということもあるのではないかと思われる。あるいは強い願望が夢の中で姿を変えて出てくることがあるのかもしれない。

夢占いという言葉がある。良い占いもあれば悪い占いもある。
たとえば、富士山の夢をみると良いことがあるとか、赤い色の夢を見ると何か危険なことがあるから気をつけろとか。しかし確証は何もない。「夢を」占うのか、「夢で」占うのか、という問題はあるが、どちらにせよ夢が絡んだ占いなのだ。何しろ占いは、当たるも八卦、当たらぬも八卦というくらいだから、占いは夢、夢は占いということができる。しかし八卦、十干、十二支などの考え方は、陰陽道に基づく平安時代の最も先進的な天文学を駆使した理論がベースになっているのだから、八卦による占いは、理論的に作られた夢、と言えないこともない。何といってもあの有名な陰陽師、映画で野村萬斉が主演した阿倍仲麻呂が夢を売る陰陽師なのだから。


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