憂国の花束

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「戦後民主主義を重んじる皇室の意識」とは、2

2020-12-07 21:53:56 | 皇室
秋篠宮さまが大嘗祭に関して「宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか」と疑問を呈したことがありました。政教分離の原則の中で、たしかに大嘗祭の存在はグレーゾーンです。だから国家予算ではなく、皇室の家計の中で行った方がよいのではないか、という秋篠宮さまの問題提起はまさに正論。戦後民主主義と皇室の折り合いをどうつけるかを真剣に考えてこられた秋篠宮さまだからこそのご発言でした。 

大嘗祭の位置づけは結論が難しい問題です。
秋篠宮殿下が問題提起してくださったことは意義あることでした。
日程の迫る中、論議は尽くされずに終わった感があります。
私は大嘗祭は国事行為で良いと考えています。

しかし、国民の反応は芳しくありませんでした。24億円超の大きな経費がかかりますが、それでも税金から出すことについて国民は問題視せず、むしろ「ケチケチしなくて良い」という声が多数派でした。これは、民主主義の原則を貫くよりも皇室の権威を示すことが大切だ、という感覚が広がっている証左です。

そうでしょうか。
「象徴天皇が何をおっしゃる。大嘗祭を皇室という一家族の私的な儀式にして、国民は一切関わるな、とおっしゃるのですか?」
という感情もあったのではないでしょうか。
少なくとも私は、そうでした。

民主主義の原則というより、上皇・上皇后以来のマイホーム主義?
平成以来皇室を支配しているのは、民主主義というよりマイホーム主義でしょう。
片山氏はマイホーム主義を民主主義と言い換えていらっしゃるのではありませんでしょうか。

同時に、上皇上皇后両陛下が平成期に確立した「無私に徹し、平和を祈る存在」という皇室観も曲がり角を迎えています。両陛下はずっと平和への思いを表明してきましたが、その“ありがたみ”を実感する人の数は確実に減っています。

平成の後期以降の振る舞いから「所詮ポーズだけだったのか。」「自己満足のためだったのか」と疑念を抱くものが出てきたのも一因でしょう。

しかし上皇上皇后両陛下が確立した皇室観があまりに成功したために 

何をもって「成功した」と言っているのか?
よく解りません。

上皇上皇后が確立した皇室観が造り出したものが皇室の現状であるのなら、成功だったとは到底言えないでしょう。
皇室は限りなく庶民化し、皇族は皇族ビジネスに熱中し、我が家の安全と繁栄ばかり願っている。
男系男子皇族が壊滅的に少なくなってしまったことには、上皇上皇后にも責任の一端はあるでしょう。

 私は皇室があった方が日本の社会は安定すると思いますので、天皇家がなくなってしまえばいいとは断じて考えません。しかし、このままではそう考える人が増えてもおかしくない。 

これは、全く同感です。

今回の眞子さまの結婚問題、ひいては自由恋愛に象徴される「民主主義を目指す皇室」と国民との乖離を上手にハンドリングできなければ、影響は想像以上に大きなものになるかもしれません。 

なんなのでしょう。
結局、片山氏が「戦後民主主義を重んじる皇室の意識 」で言う皇室が重んじている民主主義とは自由恋愛とマイホーム主義のことでしょうか?

自由恋愛もマイホーム主義も悪いことではない。
しかし、それを追求すれば行く先は「自分だけ幸福であれば良い。」というエゴイズムでしょう。
それでいいのでしょうか?

「戦後民主主義を重んじる皇室の意識」とは

2020-12-07 11:15:00 | 皇室
文春オンライン12月6日
片山杜秀氏は
「戦後民主主義を重んじる皇室の意識」と「保守化する国民意識」の乖離 
という視点で眞子内親王と小室圭氏の結婚について語っている。

学者らしく難しい言葉を使っているが、平易に言えば皇族が考えている皇室の在り方と、国民が皇室に望んでいることの間にずれがある。
ということですね。

皇室に少しでも関心があり、ネットの皇室系に出入りしている者なら誰でも「ずれ」は感じているでしょう。
皇室ブログあたりではその「ずれ感」を「高貴なお育ちだから庶民感覚が解らない。」という言葉で埋めようとする者が多いようです。

片山氏は「ずれ感」に「民主主義を重んじる皇室の意識と保守化する国民の意識との乖離」という言葉を与えたわけですが、では、そのずれはどのように意識改革したら埋められるのでしょうか?
民主主義を重んじる皇室の意識と保守化する国民の意識との乖離
などと言われると、民主主義を重んじる皇室の意識に国民が意識を変えて歩み寄らなくてはいけない。と言われているような気がして来ますね。

片山氏が言う「民主主義を重んじる皇室の意識」とはどのようなものでしょうか。

その変化の1つが、自由恋愛です。
<中略>そして夫婦と子供たちによる「戦後核家族的なファミリー像」を打ち出しています。 
秋篠宮さまも「特別な存在ではなく1人の人間として生きることが、国民に寄り添うことになる」という意識をお持ちです。 

国民は皇族に「自由恋愛するな」とも「戦後核家族的はファミリーをつくるな。」とも言ってはいない。
天皇らしい、皇族らしい自由恋愛結婚をして、天皇らしい皇族らしい核家族の姿を見ることを願っているだけです。私は、ですが。

しかし個人的には、この問題がもし10年前、20年前に起きていたら、「皇室だって自由恋愛で自分の思いを貫いていいじゃないか」という声がもう少し強かったのではないかと思います。 

それでは私も、個人的に言わせていただきましょう。
10年前20年前に起きていたら、もっと反対の声は大きかったでしょう。
戦中、戦後を体験した世代は今よりずっと数は多くて元気でした。皇室でも三笠宮寛仁殿下当たりが猛反対されたのでは?
反対の理由となったであろうことは、小室母子の出自と母子の道徳観でしょうが、とりわけ出自については、今よりはるかに多数の者が反対を唱えたはずです。

10年20年前と言えば、当時皇太子妃であった雅子皇后のらしかならぬ振る舞いへの批判が多かったころです。加えて小室母子では、国民は今以上にゲンナリしていたのではないかと思います。
10年20年前なら、国民が眞子内親王と小室圭氏の結婚を歓迎しただろうとは何処を見たら言えるのでしょうか。

戦後の皇室はながらく、畏れ敬われるというよりはフラットで親しみを持たれる存在であることを大切にし、それが受け入れられてきました。

平成時代以降の皇室、特に上皇上皇后がそう思っていらっしゃることは見ていて解りました。
しかし、それが国民が皇室に望む姿であったかどうかは解りません。
「受け入れる」というのと、「我慢する。」「諦める。」というのはまた違うものでしょう。

戦前の現人神や国家神道とまではいかなくても、ある種の「特別な存在」でいて欲しいという保守的な空気が強まっているのではないでしょうか。「国民とフラットな関係の皇室」という流れが、終わりを迎えつつあるとも言えます。

だから、誰が天皇に国民とフラットな関係を望んだのですか。
国民とフラットになりたいと願ったのは上皇上皇后でしょう。
お二人で「天皇、皇室のあるべき姿」を模索して導き出した答えが「国民に自分のほうから近づいて寄り添う」だったはずです。
国民はいつでも天皇皇族には「特別な存在」を感じていました。
特別な存在だと思うからこそ皇族方の「総裁職」というお仕事も成り立つのでしょう。

続く