岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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「アララギ」の歴史の中の伊藤左千夫

2011年04月14日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
「僕ら後進は先師伊藤左千夫先生のもとで育てあげられた姿であって、僕らは長塚さんを単に先輩として目した姿であったかれども、本質から看てやはり師と謂はねばならぬのであった。」(「長塚節の歌」)岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」195ページ。 
 この一文に出合った時、僕は素朴に「斎藤茂吉は伊藤左千夫の弟子ではなかったのか」と思った。

 しかしこの斎藤茂吉の言う様に、正岡子規に始まる「根岸短歌会」(のちの「アララギ」)の歴史をたどっていくと、伊藤左千夫という歌人はある意味での特殊性を持っていたと言わざるを得ないことに気づく。ハッキリ言うと、「根岸短歌会」(アララギ)のなかで異色なのだ。それでいて「根岸短歌会」のまとめ役であり、伊藤左千夫なくば「アララギ」の全盛はなかっただろうと思えるのだ。

 まず異色なところ。

1・正岡子規以下は明治人なのに、伊藤左千夫は江戸時代の痕跡のようなものを色濃く持っている。

 生年を調べてみると次のようになる。

 正岡子規(1867年・慶応3年)、長塚節(1879年・明治12年)、島木赤彦(1876年・明治9年)、斎藤茂吉(1882年・明治15年)。正岡子規は慶応3年生まれだが、この年は大政奉還・王政復古の年である。明治といって構わないだろう。これに対し伊藤左千夫は1864年・元治元年。第一次長州征伐の年に生まれた。生家のある成東町(現・山武市)は下総だが、ここは天領・旗本領が複雑に入り混じっていた。正岡子規が倒幕派の土佐・宇和島に隣接した西国に生まれたのと対照的である。

 正岡子規や俳句の門下の寒川鼠骨が自由民権運動に引き付けられたのに対し、伊藤左千夫は富国強兵の建白書を提出するなど、これもまた対照的である。


2・写生・写実に対する考え方の相違。

 正岡子規は短歌表現にあたって写生を唱えた。長塚節や斎藤茂吉と島木赤彦も同様である。ところが伊藤左千夫は「写生は絵画用語であり写実というべきだ」と主張した。これは正岡子規の死後のことである。


3・短歌作品の内容と声調。

 正岡子規・島木赤彦・斎藤茂吉は「短歌作品の内容が声調の在り方を決定する」と両者を一体化して考えるのに対し、伊藤左千夫は両者を必ずしも一体と考えず、「内容と調べのどちらをとるかと言われれば、調べをとる」としている。


 このように「根岸派の歌人」といっても他の歌人との差異が目立つ。伊藤左千夫と、島木赤彦・斎藤茂吉の激しい論争はよく知られている。にもかかわらず「根岸派」を考えるにあたって、伊藤左千夫を抜きに考えることはできない。

 子規亡きあと「根岸派」をまとめたのが伊藤左千夫。詳しくは「カテゴリー・写生論アラカルト・伊藤左千夫の< 叫びと話 >を読む」「カテゴリー・作家小論・伊藤左千夫小論」を参照して頂きたい。

 特長をひとことで言えば弟子の多彩さである。島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・古泉千樫・土屋文明。岡井隆はこれを「写実派の大同団結」というが、伊藤左千夫自身が正岡子規との差異を感じていたからこそ、弟子の多様性を認められたのではないかと僕は思っているが、どうだろうか。



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