オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

人間の本質

2019年05月27日 | Weblog

私の過去を振り返ってみると、自分を誤魔化した場面を沢山思い出す。

 中学生の頃だっただろうか、田舎道で50CCのバイクに乗って遊んでいた。昔は呑気なもので、お巡りさんもほとんどいないし、取り締まりもなかった。何か事件があった時には警察が出てくるのだろうが、私の子供の頃で周囲で事件らしい事件も全くないし、警察官にお目にかかることはほとんどというか全くなかった気がする。そんな中で、自転車の延長線上でバイクに乗って遊んでいた。

直角のカーブがあって、このカーブを曲がる時、

 自分の頭の中では、現在の速度のままで曲がれると思っていたが、実際はスピードが出過ぎていて、ものの見事に横倒しになって転倒してしまった。速度はそこそこだったので大事には至らなかったが、足を掛けるステップが曲がってしまった。その後、応急処置をして何も言わないでバイクをもとの場所に戻していたら、2・3日後に見つかったが、しらばっくれて知らんふりしていた。みんなは私が怪しいとは思っていたが、直接口に出す人はなかった。周りにはいい人ばかりしかいなかったのである。

これまた、子供の頃、

 川で魚釣りをして帰った時、何も釣れなかった腹いせもあったのかもしれないが、鶏小屋の鶏に釣り糸のミミズのエサのついたのを目の前に差し出したら、パクっと食いついて飲み込んでしまった。釣り針は小さくてテグスも細いので、最悪の事態にはならなかったが、喉には釣り針が引っ掛かったままになってしまった。その雄鶏は群れのボスで、毎朝立派な鬨(とき)の声を告げていたのだが、その日から「コケッコケッコケッ」と引っ掛かったような変な声しか出なくなった。

この時も、みんながおかしいおかしいと騒いでいたが、

 私は何も言わずに誤魔化してしまった。その雄鶏はすぐにボスの座を追われて、鶏小屋の一番下でコソコソと暮らす羽目になってしまった。今でも悪いことをしたと思っているが、真実を知るのは私一人である。後から聞いた話だが、その鶏は絞められて食用にされてしまったそうである。あの立派な体格と鮮やかな羽を持った雄鶏が声を失った途端に失脚してしまうという自然の厳しさを感じたものであるが、その原因を作ったのは私だったのである。

小学生の頃、大人と同じようにお金を使ってみたいと無性に思っていた時期があった。

 そこで、母の財布から千円札を一枚抜き出して街に買い物に行った。あちこち見て回ったが、買いたいものは何もなく、欲しいものもなかったので、そのまま帰ろうと思っていたが、どうしてもお金を使ってみたいという欲求に勝てず、おもちゃ屋で何故だか知らないが欲しくもないのにプラスチックの赤い電話機を買った。買って帰ったはいいが置いておく場所がない。仕方ないので物置の隅に隠しておいたが、何かの拍子に見つかってしまった。この時もあまり詮索されず怒られもしなかった。

こう見えても私は小さい頃は「賢い子供」で頭の回転だけはよかった。

 しかし、今考えると賢いの前に「ずる」がついていたようである。ずる賢かったのである。誤魔化すことと、罪を回避する能力に長けていたようである。まぁ、今から考えると子供は生来ずる賢いのかもしれないし、危険回避能力は本能的なものでもある。重大な事態にならない限りは許されていいのかもしれないが、教育的観点からはその都度指摘して善導してやらなければならないのだろう。沢山の関係者の皆様のお陰様で私も一応一人前の社会人になることができた。大いに感謝したい。

大学生の時、旅行先で財布を落として持ち金が全くなくて困っていた時、

 親切なおじさんがお金を貸してくれた。おかげで無事帰ることができた。その時、私の名前と大学名を告げて、そのおじさんには名前と住所と電話番号が書かれたメモを書いてもらった。ところが後から見るとそのメモが達筆というか悪筆というかうまく読み取れないのである。電話をかけてみたがつながらない。その住所に手紙を出しても届かない。仕方がないのでそのままにしていたら、半年後くらいに大学から呼び出しがかかった。おじさんが大学に通報してきたのである。

その時は、事情を話して謝罪とお金を返して許してもらえたが、

 おじさんとしては、もし人を騙すような行為であれば許されないと思っていたようである。しかし、よく考えると、私としてももっと手を尽くしておじさんを探すべきだったんだろう。やはり誤魔化せるのなら誤魔化してしまえと少し思っていたから放置したのであろう。本性が現れたような気もした。ただ、連絡しようと試みたのは確かであり、電話も住所も役に立たなかったのである。名前だけはその場で読み方も含めて確認したので間違いなかった。みんな確認しておけばよかったと反省するところである。

今現在、重大な事故を起こした時、私はどんな行動をするのだろう。

 考えられるのは、まず逃げ出すことである。昔の生立ちからしてまずは逃げ出そうとするのだろう。その次に自分に都合のいい言い訳を探すのだろう。そして、できれば何もなかったことにして済まそうとするのだろう。しかし、このような行動は大局高所から見ると決して正しいものではないし、将来的には好ましい結果を生むとは思われないし、罪はさらに重くなり、周囲から非難され、にっちもさっちも行かなくなるのが目に見えてくる。こんな考え方ができるのはこれまでの社会的経験による成果なのだろう。

人間の本能は決して悪ではない。

 その時点では最適の行動を取る。しかし、人間は社会的動物である。一人一人が本能によって生きると弱肉強食の原始社会に逆戻りしてしまう。本能は本能として、最終的には人間としての判断と決断が求められる。この人間としての社会的行動は長年の社会生活の中で習得してゆく。この頃の凶悪な事件を見てみると、本能のままに行動しているとしか思えない行為ばかりである。人間の社会生活が崩壊して個人個人がバラバラになりつつあるのではないかと危惧するものである。


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