オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

ストレスと付き合う

2023年09月23日 | Weblog

人間の体の不調の原因はほとんどがストレスだと言う。

 しかしながら、人間に、いや生物にとってストレスは欠かせないものであり、ストレスがなければやる気も起きないし、創造的で前向きな活動はできないし、下手をすると生命さえ維持できないかもしれない。あらゆる生命活動の原点はストレスであり、ストレスがないと何も始まらないと言っても過言ではない。

人間はストレスを諸悪の根源のように言い徹底してなくそうとする。

 確かにストレスは身体に悪影響を及ぼすが、なにか新しいことを始める時は何らかの犠牲が必要であり、その犠牲なしに物事は始まらない。あえて犠牲を覚悟して何かを始めようとしてストレスが生じるし、結果としては身体に犠牲を強いて何らかの損傷が現れる。医学的には炎症と言われる。ストレスによりあちこちに炎症が生じるのである。

しかし、生物にはこの炎症を治癒して回復する機能が備わっている。

 そして、ストレスで生じた炎症は休息により消滅する。怪我をして暫く経つと傷が治ってしまうのは経験するし、わかり易い例だろう。ただ、炎症と言われるものは外傷だけではない。身体の中の各部分で炎症は発生する。体を守るために炎症が発生しているのである。炎症を悪者にしてしまうが、炎症は必要な機能なのである。

問題は、炎症が酷くて回復できない場合である。

 過大なストレスから来る過度の炎症は生命の危機をもたらす。身体が過剰に反応して炎症があちこちで発生しているのである。炎症に耐えられないと生物は死んでしまう。なんでこんな炎症が発生してしまうのだろう。それは、生物は自分の命を守るためにあらゆる努力をしているからである。炎症によって命を守ろうとしているのである。

炎症に耐えられないとはどういうことか?

 免疫機能が低下しているか機能不全に陥っているのである。炎症を回復することができなくなっているのである。それでも敢えて炎症により身体を守るために挑戦しているのである。免疫機能が万全であれば身体は守られてその結果生じた炎症も治まってくれる。これが通常であり、これが正常な機能である。なにもおかしなことはない。

ストレスについて、あれこれ騒いでいるのは人間だけである。

 人間も生物であり、生物のDNAで活動している。人間が今のような生活を始めたのは生物の歴史からするとつい最近である。ということは、現在のDNAはまだ現代の生活に適用していないのである。時代遅れのままと言ってもいいし、適応するにはもっともっと膨大な年月がかかると思われる。そのギャップから現代人は色々なことに悩まされることになる。

ストレスから来る鬱が問題になっている。

 鬱は現代人特有のものであり、昔の人間のような生活をしていれば鬱になることはない。現代人の生活環境に昔からのDNAに記憶された経験に基づく危険信号が発せられそれにストレスを感じているのだが、現代人はこれに気づかず放置しているもしくはやり過ごしている。しかし、ストレスは確実に蓄積しているのであり、その結果が鬱の症状になって現出しているのである。

軽度の鬱は人間にとって身体を守るための警告信号なのかもしれない。

 ストレスを無くしなさい、休憩しなさい、体調を整えなさい、と言っているのだろう。そのために活動が少なくなり、閉じこもって、やる気も起きなくなるのだろう。そう前向きに考えれば、鬱で悩むこともないように思える。鬱を病気として医療により治療しようとするのは鬱の症状を抑えるだけで、根本の原因をなくしたわけではない。もっと、気楽に鬱と付き合いたいものである。

大昔の生物のDNAは現代のように長生きする前提になっていない。

 大人になって生殖を終えれば死ぬようにプログラムされている。だから、炎症が有効なのである。炎症によりウィルスやバイキンなどに対抗してきたのである。身体を犠牲にしても生き延びる可能性を追求したのである。ところが現代人のように長寿になり、病弱になったり老化することにより、免疫機能が低下し、異常をきたし、炎症に耐えられなくなり、あちこちに不具合が出てくるが、近代医療がこれを支え克服しようとしている。

大昔の生物のDNAは生命の危険を感じると、回避行動を取った。

 その時に生じるのがストレスであり、ストレスにより回避行動が可能になり、危険を回避できた。しかし、このストレスは常にあるわけではないし、回避行動が空振りに終わることもある。空振りの部分が現代人の言うところの不安である。しかし、本来空振りは必要なのである。この空振りの繰り返しがただ一回の重大な生命の危険を回避してくれる。そうであれば不安は必要なのである。

回避行動の最終結果は運動である。

 ストレスに反応して筋肉に指令を出し、実際に筋肉を動かしてその場を逃げることになる。この運動までが一連のストレス行動であるが、現代人は回避行動という具体的な運動はなしに、不安だけが心の中に増幅している状態である。この状態を脱するためには、運動することである。運動により身体が正常状態に戻ることができる。回避行動に関係なく運動することにより調和を取ればいいのである。

不安が全くなくなることはない。

 それでは、この不安とどう付き合うかであるが、この心の中の不安は環境が変わり時間が経つとともに変えることができるのである。ただ、この不安を自分の中に閉じ込めてしまうと、いつまでたっても新鮮そのままの不安が再生されるだけで解消されることはない。自分で反芻する、文章にしてみる、もしくは人に話してみることが大切なようである。鬱を解消するのも人との付き合いが保てれば快方に向かうことができそうである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 誠実って何だろう? | トップ | 新聞記事からの素朴な疑問 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事