宇宙に地球外生命体があるかと問われると、
存在するという人と存在しないという人に二分される。存在するという人は、存在する事を期待してその可能性を信じ、存在しないという人は、現実に生物の存在を確認できていない事実をもって、可能性を否定する。私の場合は、地球も宇宙の一部であり、その地球に生命が存在している事実から、宇宙には地球以外にも生命体が存在すると確信している。自分の存在そのものを確信している事実が、そのまま地球以外にも宇宙に生命体が存在する根拠となっている。「自分が存在するんだから他も存在する」という論法である。空間的な範囲を無限大に拡大してゆけば、地球外生命体の存在は皆無とはいえないし、可能性は無限大に増大する。
空間的な範囲を時間的な範囲に変えてみると、
無限大の時間的空間に、永遠の生命は存在するのかということになる。これも考え方は肯定派と否定派に二分すると思う。私の場合は、永遠の生命は存在すると信じている。これも、自分自身の生命を確信することと、存在そのものを確信することが根拠となっている。私的には、この私自身の存在が死を境にして永遠に消滅するとはどう考えても信じられない。どのような形で存在し続けるのかは知る由もないが、想像もできないような形なのであろう。連続した生命であるかもしれないし、不連続もしくは断続した生命であるかもしれない。時空的に隔離された生命が相互に関係を持っているのかもわからない。もしかしたら全てが一つの生命に統合されるのかもしれない。無限大の時間的空間に存在する全ての生命が現在の私自身の生命と関係する可能性を全く否定することはできない。
私の存在は、過去の累々と続く系譜の上に存在する。
膨大な数の先祖の意思によって私が存在している。人類の最初の母が誰かは知らないが、少なくともこの最初の人類の母との関係によって私が存在する。物理的かつ身体的な関係においてさえそうなのだから、精神的かつ心霊的な関係においてはさらに結びつきが大きいと考える(根拠はない)。私が一瞬一瞬に考える事、一挙手一投足の動きそのものが、この永遠の生命に左右されていると思う。そうでなければ、なぜそんな思考をし行動をするのかの根拠を見出す事ができない。実際に起こした行動そのものを自身で修正する事は可能だが、行動そのものの最初のきっかけは自分でも理解できないし、いちいち理解していたのでは生命活動に支障をきたす。見えない生命に影響を受け、見えない生命に生かされているのだと思う。
植物にも意思があることを体験した。
朝顔を1本植えて、二階に向かって蔓を巻くように麻紐を1本張ってやったら、グングンと伸びて二階の軒下まで到達した。その後どうするかと観察していると、それ以上は上へ伸びてゆけないと判断したのか、根元から新たな蔓が生えてきて横に伸び始めた。蔓の最先端部分と蔓の根元はしっかりと統一的な行動をとっているのである。もっと観察していると、蔓の途中から分かれて新たな蔓が伸び始め、じゃんじゃんと横に向かって蔓を伸ばし始めたのである。私にはこの朝顔が一つの意思を持って生きつづけている事を確信した。この意思こそ生命そのものの発露ではないかと思う。この意思は植物の持つ生命がコントロールしているのだと思う。じゃぁ、その生命はどこにあるかと言われても存在を確認することはできない。結果としてこの統一的な行動を可能にしている。
最近、友の死に遭遇した。
その通夜に参列して、旧友と会うことができ、亡き友とのお別れをしているうちに、何となく、今は亡き友といずれかはどこかで再会できるのではないかという思いに囚われた。それ以上に参列している旧友のこれからのそれぞれの死後にもいずれかはどこかで再会するのだろうと思った。この通夜の席がその時の予行演習に思えてしょうがなかった。縁起でもないと叱責を受けるかもしれないが、永遠の生命を感じた瞬間だった。考えてみると、死に関する儀式は永遠の生命の存在を前提として行われている。このような世の中で、何故刹那的な死生観がはびこっているんだろう。死んだら全て無になり、全てが消滅すると考える人が大勢を占めている。それなのに、初七日、四十九日、一周忌の儀式が執り行われている。その意味を考えようともしないで形式的な儀式として受け入れているようである。
仏教では、死者は仏様になる。
仏様になるためには修行が必要である。死者は死後七週間過酷な修業を積むそうだ。そして、最初の一週間が最も過酷だといわれている。その時に故人を激励するために関係者が一同に会して儀式を行うのが「初七日」であり、修行を終えて晴れて仏様になった故人の偉業を称える日が「四十九日」である。この日から故人は仏様の仲間入りをし、先祖の仏様と一緒に崇められることになる。この一連の儀式は、どう考えても死後に生命が存在することを前提とし、死後は仏様となって永遠の生命のもとに存在し続ける事となる。この考え方は「死」に対する恐怖を和らげ安らかな死を可能にすることができる。そして、「生」に対しても前向きかつ建設的な未来永劫を見通した安定した考え方を持つことができる。少なくとも永遠の生命を信ずる限り現世において不善をなす事はない。
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