金のためにやりたくもないことをやることは恥ずかしいことである。
人間は何人からも一方的に強制させられることはない。あくまでも自発的に行動する。イヤなことはイヤと拒否することができる。そのような自由が与えられているのが自由主義社会である。自発的な行為を促すものはその行為自体の価値であり存在意義である。行為自体の価値や存在意義がなくても代償として金を得ることができれば何でもするという集団がいる。本来であれば恥ずべき行為であるが、生きるため生活するために必要であるというならある程度は仕方ないという気もするが、そうではなくて贅沢な欲求を満たすためにこのような行為をしている人に対しては反吐が出るほど嫌悪する。
金のためなら自分の自由を拘束されても甘んじるという人は、強制させられても甘んじるだろう。
やれと言われ暴力や恐怖を持って強制させられたら抵抗もせずに素直に従う人種であろう。こんな人達は軽蔑こそすれ人間の自尊心のかけらも見出せない。たとえ暴力や恐怖が待ち受けていようとイヤだと思ったことは徹底的に抵抗するのが人間として理想とすべき生き方であるはずである。自尊心を投げ打って金を取る人は最初から信用できないし人間としてはじめから失格であろう。たとえば、金のために売春する少女達がいる。人を騙して金儲けする人達がいる。人のためには何の役にも立たない事業を金儲けのため起こす人がいる。とにかく金儲けの大きい方を選択する人がいる。いずれも人間の自尊心を失った恥ずべき行為であろう。
まずは、自分のため、人のために役立つ仕事を見つけて専念する事である。
仕事としての意義がまず第一である。お金はその報酬として付いてくる。人間は社会生活において何がしかのお金は必要であろうが、贅沢をしなければそこそこの報酬で十分である。自分でも遣り甲斐と充実感を感じ、世間の人にも感謝されるのが本来のあるべき「仕事」である。何を勘違いしているのか、みんな金だけで優劣や貴賎や時によっては善悪まで判断してしまう。大事にしないものは失われる。金だけを大事にしていると、金以外はみんな失われる。自分だけしか大事にしない人は自分だけしか残らずに独りぼっちになってしまう。大事にする事を忘れた人には誰も近づかない。文句を言う前に相手の存在価値を認めなさい。金を請求する前に金に見合う仕事をしなさい。そして、相手に感謝される仕事を目指しなさい。何でもないことだが非常に重要だと思う。
自由を拘束されるとはどんなことだろうか。
最も端的に理解できるのは囚人であろう。食事も入浴も睡眠も排便も一挙手一投足が監視され拘束されているが、囚人でさえもある程度の自由は許されていて、自由に行動できる時間が与えられている。この自由な時間は貴重なものであろう。自由を拘束されるとはこういうことである。金のために売春をしている人は、金に拘束されている時間は囚人と同じである。客の性欲を満たすために自由が拘束され監視される。客の要求に応じて客の言われるとおりにその監視下で食事したり入浴したり排便したりすることと同じくらい自由が拘束される。それなのに性行為だけはどうして自由が拘束されても我慢できるのだろうか?単なる労働と割り切っているのだろうか?可哀想な相手への博愛精神だろうか?不思議な気がする。いずれも金のためとはいえ動物以下の恥ずべき行為であることを肝に銘じ理解させる必要がある。
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