現代の人間社会の中での立ち小便や野グソは恥ずかしいが、
公共の場でゴミを捨てたり座り込んだり大声で騒いだりするのは恥ずかしくないようである。基本的には原始的であり、社会生活のルールを無視していることには変わりない。自然界の中で原始的な生活をする場合は立ち小便や野グソも認められ、どこにゴミを捨てようとどこに座り込もうと雄叫びをあげようと特に問題ない。人間の生活は自然の一部であり他の動物と同等に扱われるし人間の原始生活が自然に与える影響も少ない。しかし、人間であふれかえっている人間社会においてはそういうわけにはいかない。ルールを無視したらその影響は人間社会全体に波及し多大な迷惑をかけることになる。ゴミを捨てたり座り込んだり大声で騒いだりするのは立ち小便や野グソと同じように恥ずべきことなのである。
暴走族が騒音を出したり暴走行為をするのも恥ずかしい。
まず、空ぶかしだが、これは全く無意味である。かっこいいと思っているのだろうが、そのかっこいいの根源はサーキットでのモーターレースを真似ているのであろう。サーキットでの空ぶかしは意味がある。これからエンジンを高速回転にして走行するのであり、その噴き上がり状況を空ぶかしで事前にテストしているのである。市街地を走行する時どんな暴走をしてもサーキットのように高速回転で走行することはない。よって空ぶかしは必要ないし無駄だし馬鹿げたことである。必要ないことを敢えてやっているのであれば周囲に対する迷惑行為そのものが目的だと思われても仕方がない。
市街地での暴走行為も恥ずかしい。
本物のレーサーを真似てかっこいいと思っているのだろうが、本物のレーサーは暴走をしているわけではない。極限の状態でのタイムレースをしているのである。そのためには体力、精神力、運転技術のいずれも地道で厳しい訓練を受けており、その結果として「かっこいい」レーサーが存在している。市街地でレース仕様の車に乗って格好だけ真似てみても「馬鹿」と言われるだけである。騒音をまき散らせばみんなの迷惑であり、中途半端な暴走は危険行為である。本当のかっこよさを追求したければサーキットのレーサーを目指せばいいし、市街地では極限の状態でのタイムレースは不可能である。どうしてもやりたければ周囲の迷惑にならないところでやって欲しいし、何の訓練もしないで車を暴走運転するだけなら豚を運転席に縛り付けて暴走させるのと変わりない(いや豚の方がもっと激しく暴走してくれる)。
自分の周りを徹底的に高級品で飾らないと気の済まない人が居る。
暴走族もそうであり、高級車やブランド品で固めるのもそうである。しかし、中心はあくまで「人」であり、高級車やブランド品などは「人」を引き立てるための品物に過ぎない。「人」が引き立てるにふさわしくなければ周りを高級品で固めても意味がない。また、高級品で固めないと自分に自信がもてない人も困ったものである。自分に自信があれば高級品なんて必要ない。たとえ高級品を持ったにしても自分の人格にふさわしい、又は自分の個性にあったものである必要があり、着こなされ使いこなされたものである必要がある。そういう目で見ると高級品やブランド品を着こなし使いこなすのがいかに大変かがわかる。そんな大変な思いをしたくなければあまり高級品やブランド品で固めすぎないことである。凡人であれば金ぴかのピエロか成金みたいになってしまう。
日本人はいつから高性能志向、高級志向、ブランド志向になったのだろう。
本来は成金趣味を低俗なものとして忌み嫌い、わびさびを尊重する文化の持ち主であったはずである。わびさびこそ「人」中心の考え方だし「人の心」を大事にするものである。心がなければわびさびは存在しないし物そのものも存在しない(必要ない)。本当に必要な物は最小限であり、使い勝手のいい使いこなされた趣のある物である。決して華美な物ではないし、風情や雰囲気にすんなりと溶け込む物である。世界各国に巨匠と言われる人達の書斎や作業場が史跡として残されている。そこに置かれた物を観察してみると、しっかりと使い込まれた物であり、こだわりの愛用品は職人に作らせた特注品であり、決して世間一般に出回っているいわゆるただの「ブランド品」ではない。自分独自の「ブランド」を創り上げているのである。その風情はそのまま日本古来の「わびさび」に通じる心があるように思える。行き着くところは世界共通であり、日本古来のわびさびも捨てたものではないし、世界に自慢すべきものだと思う。
心がなくなって、その隙間を物で埋めようとしているのが今の日本である。
「温故知新」という言葉通り、心を失ったら昔に帰ればいい。環境は変わっても人間の心は不変であり今も昔も変わらない。昔の心を否定しようとするから心が空しくなる。第2次世界大戦で大きな破断面を生じたのは事実だが、日本古来の心は脈々と続いている。早く肉体的・精神的破断面を修復し、空しくなった心を日本古来の心で満たす努力をしなければならない。日本古来の心は何も間違った悪いものでもないし、古くさい時代遅れなものでもない。物に負けてしまったような金ぴかのピエロや成金は恥ずかしい忌み嫌うべき存在なのである。心が物に負けてしまっている。自分を取り戻して自分に自信を持って自分の個性を堂々と主張し自分の意見を発信できるような人を目指して行かなければならない。
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