幼児とは小学校に就学するまでの子供である。
記憶機能は言語能力と密接な関係があり、言語習得前の段階では記憶を形成する能力が不十分であり、2歳以前の記憶を保持し続けることは難しいと言う。考えてみると、自分でも2歳以前の直接の記憶はないと思う。あったとしても、後から両親や兄弟や周囲の人から聞いたことを自分で作り上げた記憶であるようだ。こればかりは人間の脳の仕組みであり、脳の基本機能が完成するのは3歳である。
だからと言って、3歳まで教育しても無駄と言うわけではない。
脳の機能を完成させるためにフル稼働で脳を鍛えてやらなければならない。その過程がないと不完全な脳を作り出してしまう。たとえ本人の具体的な記憶は残らなくとも様々な経験をさせなければならないし、系統だった刺激と反応を繰り返し経験させなければならないと思う。脳に記憶として記録されるのは習得した言語の形で、系統だてられた物語や象徴的な言葉としてであり、言語能力の発達とともに脳への記憶量は加速度的に増大して蓄積される。
脳の記憶とともに人として必要な要素が整うのは14歳くらいだと言う。
中学生の頃である。昔で言えば15歳で元服していたのがわかるような気がする。15歳はすでに大人の脳が出来上がっている年齢なのである。この15歳までの時期に基本教育として小学校、中学校の教育があり、幼児教育がある。この時期の教育がいかに重要であるか改めて考え直さなければならないと厳重な警告を発するものである。反対に、この時期の教育をお仕着せの基本教育だけに任せていていいのかとの心配にもなってくる。学校関係者は胸を張って「任せとけ」と言えるであろうか…。
幼時からの英語教育が検討されている。
前述したとおり、記憶は言語によってなされる。この言語を何にするかは非常に重要なことである。そして、言語の発達とともに記憶は形成されていく。その言語を何にしようとしているのか疑問に思えてくる。母国語である日本語なのですか?それとも英語にしようとしているのですか?私としてはどう考えても母国語である日本語を母体として言語を発達させ記憶を形成していかなければならないと思うがどうであろう。
極端な人は、英語で考え英語で記憶できるようにするのが目標と言う。
それは無理だし、母国語の日本語を捨てなければならない。日本人が一生を通じて作り上げる自我としての自己の記憶は果たして英語によるのだろうか?どう考えてもそうではない。思考力を発達させる意味でも言語は母国語に統一すべきであり、そこに英語を本格的に持ち込もうとすると混乱するばかりである。英語はあくまでも副言語であり、幼児期には徹底的に母国語としての日本語を教え込まなければならないと思う。
帰国子女の問題がある。
子供の頃に海外で育って英語力を身に着け、その後日本に帰国した子女のことである。この問題を分析すれば英語教育の在り方が見えてくると思う。ほとんどの帰国子女は英語の能力を維持できなくて、反対に母国語である日本語の習得に苦労しているようだ。前述のように15歳以前の子供は言語を直接的に習得する。脳が発達する時期で柔らかくて直接理解して反応することができる。そして周囲の環境にも円滑に溶け込んでゆくことができる。そのために大人より急速に英語能力を獲得できるようである。
反対に帰国子女は獲得した英語能力を喪失するのも早い。
まずは、英語環境がなくなること、日本語能力の習得のため新たな言語を取り込まなければならないこと、英語ではコミュニケーションが取れないこと、等があり、人によっては積極的に英語能力を捨て去ることとなる。また、直接本能的に獲得した能力は記憶として残っておらず、容易に忘れ去られてしまう。また、自分自身で英語能力を高める方策を知らないと思う。周囲の者が意を尽くしてやらないとせっかく獲得した能力が無に帰してしまう。
まずは、母国語である日本語を徹底して教えることである。
遅れている日本語教育を取り戻してやらなければならない。そして、獲得した英語能力を維持してやることである。継続的に英語環境を提供してやる、自分自身で英語能力を高める方策を教えてやる、英語能力が自分の特技であり長所であることを認識させることでもあると思う。胸を張って帰国子女として活躍できる場を作ってやることだと思う。日本国内にインターナショナルな教育の場も必要だろうし、在来の学校もインターナショナルに向かうべきだろう。
こう考えてくると、英語の幼児教育は限定的にならざるを得ない。
まずは、多様な発音であろう。日本語にはない多様な発音方法を教え込むことは有効かもしれない。そして、簡単な言葉や文章の使い方を学べばいいだろう。まずは、こんな言葉もあるんだと本物での経験をさせることだと思う。頭の中で記憶させる教育は無理である。自転車の乗り方を教えるように、歩き方を教えるように、英語に馴染ませなければならないと思う。少なくとも日本語のカタカナ英語やジャパニーズ イングリッシュは駆逐しなければならないし、みんなが正式の発音と使い方で英語を使える環境を作り上げなければならないと思う。
英語の幼児教育だけが英語能力向上の解決策ではない。
英語能力はどの時期からでも向上させることができるし、その母体となるのは母国語である日本語の能力である。また、英語を話せても豊かな内容を表現する知識力は母国語で作り上げた系統だった記憶によるしかない。反対に大人になってからの語学能力は母国語の理解を基礎として、その知識を生かして外国語を習得する。その学習法は分析的であり系統的であり、また、会話に限らず読み書きにも発展してゆく。自らの英語能力を向上させる方策も理解している。このために記憶の定着が強く残ることになる。
英語教育と同じようにプログラミング教育を幼時から始めると言う。
これも同じである。プログラミング教育もどの時期からでも可能である。それよりもそこに至る思考力、創造力、問題解決能力の方が重要である。プログラムを組めるようにプログラム言語やその使用法を幼時から教えるのはあまり意味がないと思う。プログラミングそのものは単なる手段であり道具に過ぎない。創造的に何をさせるのかが最も重要である。果たして今の学校教育が創造的であろうか問題発見能力、問題解決能力、コミュニケーション能力、共同作業能力の向上を図っているのだろうかと疑問は膨らむばかりである。
記憶機能は言語能力と密接な関係があり、言語習得前の段階では記憶を形成する能力が不十分であり、2歳以前の記憶を保持し続けることは難しいと言う。考えてみると、自分でも2歳以前の直接の記憶はないと思う。あったとしても、後から両親や兄弟や周囲の人から聞いたことを自分で作り上げた記憶であるようだ。こればかりは人間の脳の仕組みであり、脳の基本機能が完成するのは3歳である。
だからと言って、3歳まで教育しても無駄と言うわけではない。
脳の機能を完成させるためにフル稼働で脳を鍛えてやらなければならない。その過程がないと不完全な脳を作り出してしまう。たとえ本人の具体的な記憶は残らなくとも様々な経験をさせなければならないし、系統だった刺激と反応を繰り返し経験させなければならないと思う。脳に記憶として記録されるのは習得した言語の形で、系統だてられた物語や象徴的な言葉としてであり、言語能力の発達とともに脳への記憶量は加速度的に増大して蓄積される。
脳の記憶とともに人として必要な要素が整うのは14歳くらいだと言う。
中学生の頃である。昔で言えば15歳で元服していたのがわかるような気がする。15歳はすでに大人の脳が出来上がっている年齢なのである。この15歳までの時期に基本教育として小学校、中学校の教育があり、幼児教育がある。この時期の教育がいかに重要であるか改めて考え直さなければならないと厳重な警告を発するものである。反対に、この時期の教育をお仕着せの基本教育だけに任せていていいのかとの心配にもなってくる。学校関係者は胸を張って「任せとけ」と言えるであろうか…。
幼時からの英語教育が検討されている。
前述したとおり、記憶は言語によってなされる。この言語を何にするかは非常に重要なことである。そして、言語の発達とともに記憶は形成されていく。その言語を何にしようとしているのか疑問に思えてくる。母国語である日本語なのですか?それとも英語にしようとしているのですか?私としてはどう考えても母国語である日本語を母体として言語を発達させ記憶を形成していかなければならないと思うがどうであろう。
極端な人は、英語で考え英語で記憶できるようにするのが目標と言う。
それは無理だし、母国語の日本語を捨てなければならない。日本人が一生を通じて作り上げる自我としての自己の記憶は果たして英語によるのだろうか?どう考えてもそうではない。思考力を発達させる意味でも言語は母国語に統一すべきであり、そこに英語を本格的に持ち込もうとすると混乱するばかりである。英語はあくまでも副言語であり、幼児期には徹底的に母国語としての日本語を教え込まなければならないと思う。
帰国子女の問題がある。
子供の頃に海外で育って英語力を身に着け、その後日本に帰国した子女のことである。この問題を分析すれば英語教育の在り方が見えてくると思う。ほとんどの帰国子女は英語の能力を維持できなくて、反対に母国語である日本語の習得に苦労しているようだ。前述のように15歳以前の子供は言語を直接的に習得する。脳が発達する時期で柔らかくて直接理解して反応することができる。そして周囲の環境にも円滑に溶け込んでゆくことができる。そのために大人より急速に英語能力を獲得できるようである。
反対に帰国子女は獲得した英語能力を喪失するのも早い。
まずは、英語環境がなくなること、日本語能力の習得のため新たな言語を取り込まなければならないこと、英語ではコミュニケーションが取れないこと、等があり、人によっては積極的に英語能力を捨て去ることとなる。また、直接本能的に獲得した能力は記憶として残っておらず、容易に忘れ去られてしまう。また、自分自身で英語能力を高める方策を知らないと思う。周囲の者が意を尽くしてやらないとせっかく獲得した能力が無に帰してしまう。
まずは、母国語である日本語を徹底して教えることである。
遅れている日本語教育を取り戻してやらなければならない。そして、獲得した英語能力を維持してやることである。継続的に英語環境を提供してやる、自分自身で英語能力を高める方策を教えてやる、英語能力が自分の特技であり長所であることを認識させることでもあると思う。胸を張って帰国子女として活躍できる場を作ってやることだと思う。日本国内にインターナショナルな教育の場も必要だろうし、在来の学校もインターナショナルに向かうべきだろう。
こう考えてくると、英語の幼児教育は限定的にならざるを得ない。
まずは、多様な発音であろう。日本語にはない多様な発音方法を教え込むことは有効かもしれない。そして、簡単な言葉や文章の使い方を学べばいいだろう。まずは、こんな言葉もあるんだと本物での経験をさせることだと思う。頭の中で記憶させる教育は無理である。自転車の乗り方を教えるように、歩き方を教えるように、英語に馴染ませなければならないと思う。少なくとも日本語のカタカナ英語やジャパニーズ イングリッシュは駆逐しなければならないし、みんなが正式の発音と使い方で英語を使える環境を作り上げなければならないと思う。
英語の幼児教育だけが英語能力向上の解決策ではない。
英語能力はどの時期からでも向上させることができるし、その母体となるのは母国語である日本語の能力である。また、英語を話せても豊かな内容を表現する知識力は母国語で作り上げた系統だった記憶によるしかない。反対に大人になってからの語学能力は母国語の理解を基礎として、その知識を生かして外国語を習得する。その学習法は分析的であり系統的であり、また、会話に限らず読み書きにも発展してゆく。自らの英語能力を向上させる方策も理解している。このために記憶の定着が強く残ることになる。
英語教育と同じようにプログラミング教育を幼時から始めると言う。
これも同じである。プログラミング教育もどの時期からでも可能である。それよりもそこに至る思考力、創造力、問題解決能力の方が重要である。プログラムを組めるようにプログラム言語やその使用法を幼時から教えるのはあまり意味がないと思う。プログラミングそのものは単なる手段であり道具に過ぎない。創造的に何をさせるのかが最も重要である。果たして今の学校教育が創造的であろうか問題発見能力、問題解決能力、コミュニケーション能力、共同作業能力の向上を図っているのだろうかと疑問は膨らむばかりである。
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