
「徒労サイクル」という言葉がある。
車で言うところのアイドリングみたいなものである。アイドリングといっても全力を尽くしたアイドリングである。いつでもどんなことでも対応できるように準備し何かがあったら即座に反応できる状態を維持することである。これには多大のエネルギーを使用する。しかも、何もなかったら、それこそ「徒労」に終わる。これは必要な無駄である。
人の脳は、
活動が活発な覚醒時も休止中の熟睡時も、また活動がほぼ停止した植物人間でもエネルギー消費量は変わらないと言う。つまり、情報が流れていないときも常時情報伝達が可能なように「徒労サイクル」をフル回転させているそうである。
「無駄」は悪いこと、忌むべきこと、なくすべきもの、
という考え方が支配している。しかし、必要な無駄もあることを認識してもらいたい。無駄を惜しんでは新しい発想や発見は生まれてこない。多くの偉大な人物は、世間の人々が無駄と思い込んでいたところに光を当て、その無駄と思われることを繰り返し、全身全霊を傾け、偉大な発見と偉大な功績を残してきたのである。最初から無駄と思って諦めていたら、多くの偉大な発明・発見は見過ごされ闇に葬られたであろう。長年の「徒労サイクル」が実を結んだことになる。
社会において、いわゆる優等生だけが役に立つわけではない。
劣等生も必要なのである。優等生は現時点での基準で選ばれた者で、世が変われば劣等生のレッテルを貼られた人物の中から偉大な能力の持ち主が現れる。優等生ばかりでは画一的で個性に乏しく新しい環境には対応できない。
また、社会を動かしているのは、
一握りの優等生ではなく大多数を占める劣等生である。我々はこのくらいの寛大さと大きな目で人を育てて行かねばならない。劣等生を切り捨てるような教育はしてはならない。また、たとえ劣等生のレッテルを貼られたにしてもそれは一面的、一時的な評価であり、全人格を否定されたわけではない。自信を持って他の可能性を発掘して行けばいいのである。個性的な劣等生はあえて画一的な優等生を目指す必要はない。
また、いわゆる優等生は社会の中心となって働く人の候補者であり、
選抜するに当たっては、将来我々のリーダーとなるにふさわしい人物が一握りでもその中に含まれている事が重要である。この選抜を誤るとリーダーにふさわしい人物が将来不在となる。果たして、現在の選抜法が正しいのであろうか。
我々が何かことを成そうとするとき、
考えてみると「徒労サイクル」の繰り返しである。まず、成そうとする事柄が頭から離れない。四六時中そのことを考えている。何度も試行錯誤を繰り返す。簡単なことでない限り1回で成功することはまずあり得ない。しかし、簡単な方法がある。すでにやり方を知っている誰かに教えてもらう、そしてついでにやってもらう方法である。
既にできあがった物を手に入れる方法もある。
しかし、それは自分の実力ではなく、他人の手柄である。何でもかんでもこの簡単な方法に安易に飛びついていないだろうか。また、いろんなところで安易な方法ばかりを勧めているのではなかろうか。これではいつまで経っても自分の実力は身につかない。自分の決めた道は自分で切り開く意気込みが必要である。たとえ「徒労サイクル」になろうとも・・・・・。
実社会を考えてみると、
この「徒労サイクル」を認めてくれる環境にあるだろうか。あまりにも目先の成果にとらわれ、業績に結びつかないと早々に失敗という結論を出し評価を下してしまう傾向にないだろうか。そして手っ取り早くその技術と能力を持った外部の者に依存してしまっていないだろうか。これでは部内の人材は育たないし、反対にその芽を自ら摘んでいることになる。ほんとうの実力者は去り、口先だけのフィクサーが活躍するが、当然、体質は弱体化する。
大自然には、無駄なものは何もない。
一見無駄と思われるものでも、自然に対してなにがしかの貢献をしている。また、そのために生かされている。無駄なものと排除すると、思いもよらないところからその影響があらわれ、全体のバランスが崩れることとなる。リクリエーションは、re-creation(創造の再生)であり、創造のための緊張をほぐし、新たな創造力を蓄えることであり、ここにも「無駄」が必要である。バカンスは、vacanse(空白)であり、最上級の何もない白紙の「無駄」な時間である。「無駄」といって馬鹿にせず、大いに「無駄」を認め、「無駄」をエンジョイし、「無駄」の中にいて、「宝」を探そう。
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