凶悪かつ凄惨な事件が起こると、そのきっかけを作ったものが悪いという論調がある。
そのきっかけをなくせば事件はなくなると考えている人がいる。私はそんなことはないと思う。そのきっかけが重大で本質的な要素を含んでいれば話は別だが、通常は単なる「きっかけ」にすぎないし、その事件は別の「きっかけ」でも起こるべくして起こると思われる。反対に無数の「きっかけ」があっても、ほとんどの場合事件にならないことのほうが圧倒的に多いことにも着目すべきである。
そう考えると、何故その事件が起こったのかと考えると、
単なる突発的な事故の要素がほとんどで、事故を起こした環境の特殊性による要素がほんの一部ということになる。環境の特殊性といってもある要素と別の要素が関係しあってその相乗効果によって生じたくらいのものであろう。その主要な部分を「きっかけ」といっているのだと思う。
問題の本質は「きっかけ」ではない。
「きっかけ」以降の事件の過程の異常性である。なぜその「きっかけ」によって異常な事件に発展したのかである。事件が起こる「きっかけ」はいつでもどこにでも存在する。その「きっかけ」によって生じた異常事態は通常は事件に発展することなくほとんど収拾する。その収拾させる方策を習得していることが重要であり、習得していないがために異常な事件に発展してしまう。
問題は、
「習得させていない」「習得の機会がない」「間違って習得させている」「習得が不十分である」ということではないだろうか。収拾させる方策を習得していない人はいずれかは事件を起こすし、習得しない限り何度でも事件を繰り返す。習得は学習による経験の積み重ねしか方法がないし、習得の時機も方法も重要である。時機を失したり間違った方法で学習した場合は取り返しのつかないことになる。繰り返し段階的に経験させて繰り返し教育・指導して学習させるしか具体的な方法はない。
経験させることは重要である。
たとえば喧嘩である。この頃の風潮は喧嘩を悪いことと決めつけて喧嘩そのものを最初から封じ込めてしまうが、私に言わせれば幼児の頃から大いに罵り合い取っ組み合いの喧嘩をやらせればいいと思う(私はたくさんやった記憶がある)。その経験の中で喧嘩のやり方を習得してゆく。殴られ叩かれ蹴られた時の痛さも自分で解るし、どのくらいで殴り叩き蹴ればいいのかも解ってくる。
それよりも、
喧嘩で相手を負かすための方法を学習する。それは単なる腕力だけではない。意思を屈服させるのは暴力では不可能だということも解るし、頭脳を使うことの重要性も解ってくる。喧嘩で負けても相手より優位を保てる道を見つけることができる。これが前述の「事件を収拾させる方策」に通ずる。このような経験をたくさん積ませればいいと思う。
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