オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

お金について

2019年11月14日 | Weblog
お金は相手の為した行為の対価もしくは物に対する対価として支払うものである。

 そしてその対価を決めるのは行為を受ける側もしくは物を受け取る側である。これは間違いないはずである。対価はゼロから膨大な大金まである。ゼロでも問題ない。対価を決めるのは受ける側の自分なのである。そこをよく考えたらいい。相手から予期もしない金額を要求されたら事前に契約していない限り支払う必要はないし無視していい。無視するのが当然なのである。

信用取引もある。

 契約を交わして相手に行為の履行又は物品の納入を要求することである。しかし契約が完全に履行されない限りお金を支払う必要はない。契約にトラブルがあるのは契約行為自体に問題があるのであり、契約通りであればたとえ完全でなくてもお金は支払わなければならない。そして、お金を支払うのは完了時点であり、完了時点で承諾すればこれで一応契約は終了である。

契約に対する金額も双方の了解のもとに決定される。

 しかし、契約金額を決めるのは契約者本人である。契約金額が気に入らなければ契約内容を見直すだけである。ここでも「お金は相手の為した行為の対価もしくは物に対する対価として支払うものである」これに間違いない。契約外の法外な金銭を要求されることはない。たとえ要求されても了承しないで支払いを拒否すればいいのである。こんな簡単なことなのに世の中ではたくさんの金銭問題が発生する。

金銭の価値は各人各様である。

 大金持ちであれば、多少の金銭の多寡は気にしないし、必要であれば相応の金銭を支払うことに躊躇はない。貧乏人はそれなりに工夫して同様なものを安価で手に入れるように努力する。それで何も問題ないのである。高級なものでも安価なものでも最終的な目的を果たすのには何も問題ない。高級な物であっても中古であれば安価で購入できる。何を選択するのかは各人の自由で誰に文句を言われる所以もない。

世間では「定価」が浸透している

 「定価」であっても高いか安いかの選択は個人の自由である。高ければ買わないだけである。そんな中で「定価」が決まってゆく。定価に甘んじて個人が安請け合いしないことである。その判断は受けられるサービスや物に対する個人の価値基準である。各人が自分の判断で決断することが重要である。周囲の雰囲気や流行に惑わされてはいけないのである。これが健全な経済活動である。

中東アジアでの価格の決め方は独特である。

 お客の顔を見て値段を決める。お金持ちと見れば高い価格で持ち掛ける。お金持ちは必要であればそのままの価格で購入して何も問題にしない。同じ品物でもお金のない人は当然のごとく値切って自分の納得する価格で購入する。貧乏人はさらに値切って自分で支払い可能な価格で購入する。最後まで値切られると売る側は儲け度外視で慈善の領域に踏み込む。「お前金持ってないのか、しょうがないなぁ」という雰囲気である。ここまでやると当然自尊心は傷つけられる。

お金が流通するのは、相手がお金を受け取ってくれるからである。

 受け取った相手もまた誰かが受け取ってくれることを信じて疑っていない。そしてお金の本来の価値は信用そのものである。受け取った金額と等価のものと交換できる信用そのものを取引しているのである。と言うことは、お金を受け取ってくれなかったらお金は流通しない。また、受け取ったにしてもその金額に見合ったものが保証されない場合はそこで流通は途絶えてしまう。お金の価値を認めない者にはお金は必要ないし、お金はなくても信用さえ獲得できれば社会生活はできる。

貧乏人は貧乏人らしくお金を流通させればいいのである。

 莫大な金額は必要ないし、自分が働いた分でお金を得て、そのお金で生活すれば何も問題ないはずである。そして、お金はなくても信用だけで生活することもできる。たとえば、家族である。働き手が働いて収入を得て、その他の人は収入がなくても生活できる。その分は家族の信用でつながっている。我々の生活も商行為だけで成り立っているわけではない。無償の行為をやったりやってもらったりしているし、その部分の方が大きいのではないか?何もかも「カネ」「カネ」「カネ」では生活はすさむばかりである。

「投資」とは何だろう。

 はっきり言うと「寄付」である。そして「寄付」に対する配当と値上がり益である。投資先に対し投資先が成長することを期待して「寄付」するのである。ある意味では投資先に対する信用に対して金銭を支払い援助する行為でもある。根本は「金儲け」だけではないのである。「金儲け」だけにしてしまうと金銭本来の意味を失ってしまう。金を生むことが金銭の目的ではないのである。

身に覚えのない金銭の支払いは拒否していい。

 詐欺やぼったくりや違法契約や違法な支払いの強制である。こんな場面に出くわしたら勇気をもって拒否したらいい。それで問題ないはずである。それができないのは自らに何らかの問題や弱みを持っていることでもある。この頃はネットで不法な支払い強制ののメールや警告文が通知される事例があるが、これこそ断固として拒否していい。いや無視して削除していい。何の根拠もないし、何のいわれもない。反応がなければ相手も何の手出しもできないはずである。

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