オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

日本国の人づくりについて

2017年12月11日 | Weblog

安倍政権が教育の無償化政策を検討している。

 選挙の際に安倍首相が教育の無償化を公約に掲げたために、約束を守るために実行せざるを得なくなった。どうせやるなら実効のある政策としてもらいたいところだが、なにせ人気取りの政策のためただのバラマキのそしりは免れないようである。国民の負担が軽減すると言えば誰でも反対はしないが、軽減された分はどこに流れるのだろう。ただの生活費で消費されるのであれば、税金を投入して国民の生活費を潤したのと何も変わらない。それであれば最初から税金を軽減すればいいのに、税金は消費税を8%から10%に引き上げるという。なんかおかしいのではないかと首をかしげてしまう。

「人づくり」と言うならそのために税金を使わなければならない。

 低所得世帯の教育費を無償化して果たして人づくりができるのだろうか?低所得世帯に優秀な人材の鉱脈が眠っているわけでもないだろう。そこに税金を使ってもあまり効果はない気がする。優秀な人材はあらゆる階層の世帯に満遍なく散在していると考えるのが普通である。またそう考えるのが公平公正かつ客観的で冷静な思考であろう。それらの人達が平等な教育の機会を得られるのが民主主義社会であろう。低所得世帯のすべての人の教育を無償化することは直接的な効果が得られるとは思えない。あらゆる階層での人づくりの施策を展開すべきであろう。

何度も言うが「みんな同じこと」が民主主義ではない。

 各人の能力に応じて必要な教育の機会が平等に得られることが民主主義である。基本的には自由競争社会であり、その競争が疎外されてはならないし不平等であってはならない。そして、競争に取り残された人々を救済する機能があるのも民主主義である。単なるカネのバラマキは自由競争を著しく阻害する何物でもない。ただ単に低所得者層の経済支援をするのなら、その分の税金を軽減すればいい。あまり人づくりに貢献しているとは思えない。

人づくりをするなら教育環境の整備に金を使わなければならない。

 本当に人づくりに貢献できる制度なり仕組みなり予算を考え出さなければならない。まず考えなければならないのは現状をつぶさに観察して、よりよく改善するための制度の改善と効率的な予算の組み方を考えるべきであろう。昔の言葉に「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理」という言葉がある。3歳までは本来であれば両親の温かい愛情のもとに育てるべきであり、小学校でしつけ教育を、中学校で理性的な考えができる教育をそして、高校では独立した個人として独り立ちできる人間を育てなければならない。

そのためにどうするかが重要である。

 3歳までは両親の愛情が必要だが、共働きのために子供は幼稚園・保育園に預けるのが普通になっているが、果たして子供の教育上好ましいのだろうか?少なくとも子供の教育に専念できる時間と精神的なゆとりが欲しいものである。その原因は、共働きしないと生活できない家庭の経済状態にある。これを何とかしなければならない。幼児教育に最も必要なものは両親の愛情あふれる家庭環境である。3歳までに自己肯定感と他人への信頼感を十分に育てなければならない。少子化にもかかわらず幼稚園・保育園が足りなくて待機児童が増えているのはかえって異常であり、これを無償化すると幼児教育は幼稚園・保育園任せとなってしまわないか心配である。

6歳になれば日常生活の作法を身に着けていなければならない。

 作法は一貫性をもって筋を通したものでなければならない。これも多くは家庭環境の中ではぐくまれる。両親の、または家庭の一貫した指導方針のもとに教え込まなければならない。一貫性を持たせることができるのは家庭の中しかない。この時期が作法の基礎を教える重要な時期なのである。子供だからいいと思っていたのでは手遅れになってしまう。当然両親はしっかりとした信念と愛情と知性をもって子供のお手本となるべき言動と考え方を示さなければならない。しつけ教育は学校や社会がやるものだと思うのは大間違いだと思う。たとえ負担であってもしつけ教育は家庭でやるべきである。そして、核家族化を補足するためにもおじいちゃん、おばあちゃんの出番を望むものである。

9歳まではきちんとした言葉が使えるようにしなければならない。

 当然、日本人であるので「日本語」である。世間では幼時からの英語教育がどうのこうのと言っているが、まずはしっかりとした日本語を教え、日本語でしっかりと自己表現できる人を作らなければならない。言葉が使えるということは十分な社会常識と知識をある程度保持していることでもある。そのためにはあらゆる知識を吸収し自分のものとしていなければならない。社会常識と知識がなければ言葉は喋れても内容のない魅力のない会話しかできない。そして相手を思いやる心も必要だし、挨拶くらいはできなければならない。果たして、今の若者が内容のある魅力ある会話や挨拶ができているか疑問の生じるところである。下手すると9歳以下かもしれない。受験勉強ばかりに専念するのではなく、社会生活に必要な基本を教えるのも必要であろう。

12歳までに文字が使えるようにしなければならない。

 昔であれば一家の主の代わりに手紙を書き仕事が任せられるくらいに教え込んだと言われている。今でいえば、小説のひとつでも書けるくらいの能力が要求された。時々博物館や記念館などで昔の人の幼少の頃の手書きの文書を見ることがあるが、立派なもので、我々年配者でも真似できないくらいに達筆であり文章もしっかりしている。驚くばかりである。文字を書き記すことは極めて高度の知識と創造力を必要とする。このようなことが現在の小学校くらいまでに出来上がっていたのである。果たして今の小学校教育が自慢できる程度にあるのかまたまた疑問の生じるところである。現代であれば情報化社会に対応した教育も必要であろう。

15歳までに理を身に着ける。

 理(ことわり)とは、物事の仕組みや不合理なことを良いことも悪いことも含め、単なる知識だけでなく社会生活をするうえで理解しておかなければならないことを深く会得することを意味している。そして、15歳でほぼ完成なのである。昔は15歳は元服して立派な大人として扱われていた。今の高校生はまだまだ成人の域に達していないのを見ると、現代人の幼稚園、小学、中学、高校教育はどうなっているんだろうとさらに疑問が生じる。少なくとも大学を卒業するまでには自立して生活できるための能力を保持しなければならない。大卒の資格だけでは飯は食えないことを肝に銘ずるべきである。ということで、人づくりのためにやらなければならないことは、教育の無償化ではなく、教育そのものをもう一度見直すことであり、見直しによって出てきた問題点を改善するために予算を使うことが正しいのではないかと提案するものである。


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