オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

天才と秀才

2019年07月09日 | Weblog

天才とは、天性の才能をもった人である。

 天性とは自然のままの生まれつきという意味である。人為の加わることなく自然のままで能力を発揮できる、反対に人力ではいかんともすることのできない、人知の及ばない神がかりに近い領域に存在する人間でもある。そして、天才の成すことは創造的な、世の中の理論そのものを生み出すような能力を保有している人間もしくはその状態であろうと思う。英語で言えば、「Genius」であるが、これはローマ神話のゲニウスで、人・土地などの守り神、守護神でもある。

秀才とは、すぐれた学才をもった人である。

 本来は中国の選挙の一種目であり、官吏の候補者を推薦し、官僚登用試験の科挙に応じたものを称したものである。立場としては理論に基づいて実行する実務者であり、実務能力、実践能力に長けた人材である。あらゆる知識を吸収し、これを効率的に実行に移し、現実世界で再現してゆく能力を保有した人間もしくはその状態であろうと思う。英語では「Intelligent」であり、知能の高い、理解力のある、聡明な、理知的なという意味である。

天才と秀才の違いは、

 創造的であるか、現実的・実践的であるかのようである。そのような意味では相互に相いれない関係にある。天才は現実的・実践的な考えに縛られていては創造的な行いはできないし、秀才は理論を作り出す能力はなく、また創造的な考え方は実務的な能力を阻害することになる。天才は秀才を無視し、秀才は天才に妬みを持っている。ここで注目すべきことは、秀才は天才でないことである。しかし、天才は秀才でもある。知能を創造的な分野に発揮するのか、現実的分野に発揮するかの違いである。

天才と秀才とは別に凡才がいる。

 凡才は平凡な才能をもった人であり、創造的でもなく理論的でもなく感情に基づいて行動する。英語で言えば「Common」もしくは「Ordinary」であり、普通の、一般的な、通常の、ありふれたという意味である。凡才は天才を尊敬し、秀才に対しては追従してしまう。よく言えば、感情的ではあるがみんなに共感できる能力を保有している人間もしくは状態である。秀才は凡才の中から選ばれた人でもあり、凡才を見下している。天才は凡才を感化しようとする。こんな相互の関係ではないだろうか。

今の日本を考えると、

 秀才が幅を利かしている。政治家こそ秀才であり、官僚も秀才であり、いわゆる有名人もある意味では秀才である。そして大多数のものが凡才である。天才は一握りかも知れないが、今の日本では存在が薄くてあまり重用されることはない。天才と聞いて頭に浮かぶのは、スポーツであり、囲碁・将棋であり、芸術などであろうが、学術分野での天才はあまり見当たらない。ノーベル賞受賞者がいるではないかと言われるかもしれないが、日本の場合はコツコツと努力を重ねた結果の受賞であり、天才的・創造的な卓越した能力はあまり感じない。

こんな話をしていると、第2次世界大戦の日本の総理大臣人事を思い出す。

 当時の総理大臣にふさわしい人材は、東条英機と石原莞爾であった。東条は努力の人で、周囲に柔軟に対応し組織を円滑に効率的に動かすことに長けた秀才であり事務屋であった。石原は自分で分析し自分で判断し目標を掲げてこれにまい進し決断できる天才肌であった。どちらが優秀であるかは明らかだが、政府は石原を組織の団結を乱す者として重用しなかった。そのために日本は全体主義的な意思をもって連合国との戦争に突き進み、これを修正または阻止する人材は登場しなかった。いや封殺されていたのだろう。

天才を育て天才をもっと重用しなければならない。

 これが今の日本の欠陥部分であり、このために日本全体が低迷している気がする。別に天才、秀才、凡才が別々に存在しているわけではない。一人の人間の中でも天才、秀才、凡才の要素を持っている。その中で、天才の要素をもっと発揮すべきなのだろう。果たして政治が経済が文化が社会生活が天才の行う創造的な要素で満ち溢れているのだろうか。たまには神がかり的な主張をする人(共感できる必要はあるが)強烈な個性を持った人やそのような分野が現出してほしいものである。


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