
正義の味方は弱きを助け強きを挫く。
通常弱き者は一般市民である。よって一般市民を敵に回すことはしない。反対に一般市民を敵に回したりしたら人気を損なって、視聴率も購読数も激減してしまう。ただし、一般市民とは異質の異端者に対しては一般市民の敵として徹底的な個人攻撃をする。このことに関しては一般市民も納得で、個人攻撃が強烈であればあるほど一般市民と異質であることの差別化が明確になり、一般市民は自分とは関係ないこととして安心することができる。結果として一般市民への悪口の部分は語られずに闇に葬られる。時々、皮肉っぽく語られることはあるが、単なる刺激剤にしか過ぎず真剣に語られることはない。また、警告や警鐘程度に抑えている。
犯罪が起こったら当然被害者の味方である。
被害者の立場から取材活動をし被害者の立場から主張し意見を言う。この場合、加害者は警察の手に委ねられており、自由な取材活動はできないため、加害者の立場からの正確な情報は制限される。そのため、加害者の周辺事情を興味本位で調べまくって情報の不足を補う。「喧嘩両成敗」という言葉があるが、私はいつも、加害者と被害者の関係は基本的に対等だと思っている。平等に意見を聞くべきなのである。この時に「正義の味方」では困るのである。また、集団の組織が強くて単一の個人が弱いという思い込みもなくして中立の立場で報道すべきだと思う。一般市民という殻をかぶった「個人」に安易に迎合することは戒めなければならないし、また、一般市民と異質な「個人」に対して徹底して排斥することも戒めなければならない。
犯罪報道はパターン化する。
被害者と加害者という構図である。本当はどちらが被害者でどちらが加害者か解らない状況から事件は進展する。しかし、マスコミは最初からこれを決めつける。その方が一般市民には分かり易い。大いなるサービス精神だが、これは情報の歪曲でもある。ハッキリ解らないものは「解らない」のであり、公的な調査が済んだ段階で公式見解が出る。訴えた者が被害者で訴えられた者が加害者とも限らないし、そこの部分を調査して結論を出すのが警察の仕事である。訴えられた事実があったかどうかも含めて調査する。それなのに、最初から被害者、加害者と決めつけて報道してしまう。訴えた事実が誤解だったらどうするんだろう。そんなことの訂正記事は大事件でない限り世に出ることはない。ぶち上げただけで終わってしまう。
マスコミの報道があった後で、
本当の事実はどうだったんだろうと検証してみると、意外と誇張されたり、一方的な主張だったり、誤解されたり、思い込みだったり、偏見だったりであることが多い。身近な事件の時は自分の周囲で検証できるので特にそう思う。時には全く別の事件のように脚色されてしまっている。特に社会面の三面記事と言われる一般市民の興味を持つような記事がそうである。「AがBだった」という事実は確かに事実には違いないが、使い方によっては別の意味を持たせることができる。例えば「誰々が逮捕された」というだけで既に犯罪者扱いだが、実体は身柄が確保されただけでこれから犯罪捜査が始まるのである。
反対に犯罪を犯した青少年には「普通の素直で真面目ないい子だった」という報道に終始する。
結局はこんなに真面目ないい子が犯罪を犯すのは国が悪い、社会が悪い、教育機関が悪いと主張したいようである。「一般市民のご両親が悪いわけではありませんよ」「一般市民の子供が悪いわけではありませんよ」と言い聞かせているようでもある。これを「親が悪い」「子供が悪い」と報道したら、全国の同じような子供を持つ保護者全員から総スカンを食らう。「普通の素直で真面目ないい子だった、けれども、こういう面で問題があった」というのが正直なところであろう。「普通」「素直」「真面目」「いい子」も裏を返せば問題点は多いし、「個性的」で「腕白」で「破天荒」で「悪ガキ」でなかったことが問題なのかもしれない。その部分は覆い隠されている。また、そのような子供に育て上げた普通一般の保護者の責任には目をつむっている。
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