自然界の現象は常に変化を繰り返し、二度と同じことはない。
ところが、人間社会では「毎日が同じことの繰り返しで変化がない」と嘆く人々であふれかえっている。何故なんだろう。現実では大きく変化しているのにその変化を感じることができないのであろうか。変化を期待していないし、変化することを拒否して、自分世界の中で同じことを繰り返しているつもりになっているのであろう。自分としては同じことを繰り返したほうが楽であり苦労も少ないし無駄な労力を費やす必要もない。そして結果としてこの繰り返しでも済んでしまうために来る日も来る日も自分世界の中では同じことを繰り返していることとなる。
例えば、スポーツ選手の日々の訓練は単調な同じことの繰り返しである。
しかし、練度は日々向上しているし「毎日が同じことの繰り返しで変化がない」と嘆くこともない。なぜならば、大きな目標を目指しているし、そのために日々の訓練は創意工夫の繰り返しであり、見た目には単調な繰り返しに見えるが、その一つ一つが目的に沿った重要な要素になっている。当然ながら同じレベルでの無駄な繰り返しではなく日々向上を繰り返している。スポーツ選手にとって現状維持は後退であり、常に新しい目標に向かって向上し続けなければ競争には勝てない。反対にそのままの状態をずっと維持しようとすること自体が困難なことである。例えば現在の記録(タイム)を維持しようとするのであれば、あらゆる方法を駆使して維持しなければならないのであり、前回の試技と全く同じことを常に繰り返せと言うほうが無理がある。あらゆる方法を駆使してやっと現状が維持でき、より向上させるためには更なる努力が必要なのである。
我々は道端に咲く花を見て、今年も同じように花が咲き、自然は繰り返していると思い込んでいる。
しかし、その花は去年と同じ花ではない。厳しい生存競争に勝った花であり、下手をすると同じだと勘違いしていて実際は他の種類に変わっている可能性もある。膨大な試行錯誤の生存競争の結果、最終的にその場所に花を咲かせることができているのである。反対に言うと、その花はその場所でしか咲くことができなかったのであり、運が悪ければ(環境がちょっと変われば)花を咲かせることができなかったのである。道端の花は劣悪な環境の中で生きている。しかし、劣悪な環境であるから生きていられるのであり、劣悪な環境でなければ他の植物の繁栄を許してしまう。劣悪な環境がたまたまその花の生存に適合していたのである。そんな道端の花には「毎日が同じことの繰り返しで変化がない」と嘆く暇もないはずである。
結局「毎日が同じことの繰り返しで変化がない」と嘆く人は、ろくな仕事をしていない。
もしかしたら、何にもしていなくて時間の浪費をしているだけかもしれない。創造的な仕事にこそ成果が生まれ、単なる時間の浪費は何も生み出さない。本来自然に行動すれば黙っていても創造性を発揮するはずであるが、あえて創造性を否定して型にはまった行動に終始しょうとする考え方自体が歪である。組織として個人の創造性の発揮を否定する圧力も否定できない。創造性の発揮を阻害するのは個人の自信の喪失であり、組織の個人に対する不信感である。そのような中にあっては一定の成果(最大ではない)を維持する定型化された行動が強制され、個人としてもその行動に終始することに安堵感を覚えているが、本来の生産労働ではなく苦痛以外の何者でもない。
何に対してでも創造性を発揮することは可能である。
お茶汲みであっても真剣にやれば奥が深いし、接客相手に応じて行動すればやり方は千差万別で無限の方法が存在するはずである。手抜きをしてただ機械的にお茶を入れるだけであれば、あえて人間が仕事としてやる必要はない。機械にやらせれば済む話である。それができない部分が人間の仕事として存在する。その部分をカットしたのでは最初から仕事をやっていないのと変わりない。仕事をやっていないのにもかかわらず機械的な繰り返しを強制されれば、誰だって「毎日が同じことの繰り返しで変化がない」と嘆くことになる。
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