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オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

質があって量がある

2018年09月23日 | Weblog

物事の出発点は質である。

 質があってその質を確かなものにするために量がある。例えば何かの問題点を見つける時、注目しなければならないのは質である。質に問題があって、その質を何とかしなければならないところに問題点が発見される。そしてその問題点を明らかにするために、また解決策を導くために量の分析検討が始まる。何もないところから問題点を発見する場合には最初のスタートは質であり量ではない。量だけでは本来の問題点を見つけることはできない。

量の変化から問題点を見つけることはできる。

 しかし、それは相対的なものであり、比較することの相違に基づく問題点の指摘であり気付きである。本来はもっと本質的な問題があり、その問題のために量が変化しているだけである。問題点を解決するためには質に立ち戻ってどこが悪いのかを問い質さなければならない。「初心に帰れ」と言う言葉があるが、まさにそのことではないかと思う。量による分析結果ばかりに囚われないでもう一度質的な最初の問題提起に立ち戻って考える必要があることを指摘しているのだろう。

世間に飛び回るいろいろな情報を眺めていると、

 数字による分析が大半である。数字が減った増えたと一喜一憂しているが、一体それが何なのか、果たして問題なのか、本質的な問題は何かに到達することはない。数字は現状を表すだけで数字が変化したからと言って直ちに問題である訳ではない。もしかしたら元に戻るかも知れないし、過去にも同じような変化があったかも知れない、果たしてその変化が原因で問題が生じるのかは疑問である。確かに急激な変化は問題が生じるだろうが、その問題はたぶん急激な反対の変化によって解決し調和する。それが自然の法則でもある。

いろいろな問題は質に立ち戻ってもう一度考え直す必要がある。

 そして、問題点を見つける時には量に惑わされることなく、本質的な目で全体を捉えて総合的に自らの知識と経験と全知全能を駆使して見出さなければならない。そしてこれを解決するための新たな課題を掲げてこれを詳細に具体化して現実的な行動を起こす手段として量的な分析を始めなければならない。また、いくら量的な分析を徹底しても完全な解決策は期待できないと思わなければならない。だからいつまでも問題点は尽きることがなく、質的な思索と量的な分析が繰り返されるのである。

質的な問題点の発見はひとつのひらめきである。

 ひらめきは大脳宇宙の中から絞り出される。ひらめくかひらめかないかは一つの奇跡でもある。ほんとうに人類にとって有益なひらめきを成し遂げた人は偉大な科学者や芸術家や哲学者となっている。我々凡人にとっても考え方は同じであるが、ひらめきの質が違うし、偉大なひらめきに至ることはまずないであろう。それでもひらめきをやめてはならないし、誰も止めることはできない。そのひらめきを大事にして量的な検討を加えて日々の生活を充実させていかなければならない。

金持ちでも貧乏でもいい。

 要は金銭の多寡ではなく質の問題である。いくら貧乏であっても質が整っていれば何も問題ない。量の問題ではないのである。100万円の道具を買うのでなく、同じような道具を100円で買って済ませればいいのである。質的にはそれほど変わらない。もっと言えば自分でその道具を作れば自分専用のもっと質の高いものを手に入れることも可能である。100万円のお仕着せの道具に勝る質を備えることにもなる。他人が精魂込めて作り上げた道具を高い金を使って手に入れても所詮それは他人のものである。

問題は質が整わないことである。

 まずは、生きていけないことであろう。衣食住に事欠く場合に生活の質的問題が生じる。ただし、最低限の衣食住が整っていればまずは生活ができるし、それを基に生活の質を高めていくことはいくらでも可能である。かえって貧しい中での様々な工夫が生活の質を高めてゆく。カネに振り回されない生活は健全であり、カネに執着しない分だけ生活の質の向上に振り向けることができる。何とも理想の姿ではないか。人生の質(Quority Of Life)という言葉があるが、人生の「質」はカネだけではないのは自明の理でもある。



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