学校でエントロピーについて学んだことがあったが、
曖昧模糊としてよく理解できなかった。数学や物理や化学や情報理論の中で数式として表されると何だか理解困難になってしまう。数式は定理を証明するための道具で人間の精神的な考え方を表現するものではないようだ。いくら数式を羅列しても結局は何ですかの部分には行きつかないし、証明されたものは全体の一部にしか過ぎない。例えば、数字の範囲を無限大から無限小まで展開すると何も証明できなくなる。あくまで一定の条件下での閉鎖空間での証明にしか過ぎない。
「STAP細胞はあります」の名言を残した小保方氏のその後はどうなったんだろう。
私は名前はさておいて「STAP細胞」は存在すると思う。人間に生死にかかわるようなストレスをかけると細胞が活性化され、存亡の危機に対応できるようなスーパー細胞が発生してもおかしくないと思うし、免疫機能の正体は活性化されたスーパー細胞だと思う。何が「STAP細胞」かは別として、万能選手のスーパー細胞が存在しても何もおかしくないと思う。その研究は貴重であり、無視できるものではないと思う。証明ができなかったから全てが嘘だと決めつけるのはおかしいと思っている。当時のあのバッシングはいったい何だったのだろう。
人間の一生をエントロピーで表したらどうなるのだろう。
閉鎖空間の中でのエントロピーは状態がどう変化しようと一定である。人間の身体をひとつの閉鎖空間とすれば、ある一定時間のエントロピーは大体同じになるはずである。空気を吸い込んで吐き出す、食物を取り入れて排泄する、蓄えたエネルギーを使って運動したり器官を動かしたりである。たぶんインプットとアウトプットはだいたい一致するのだろう。ある意味では可逆的である。しかし、人間は無限の時空の中に存在する。全体としては開放空間であり不可逆的である。
我々の一生を支えているのは開放空間である。
解放空間から物質を循環しエネルギーを得て生きている。よって人間の一生は不可逆的であり、元に戻ることはできないのである。悪くなったら元に戻るのではなく悪いままで修復することしかできない。修復とは元のものと同じようなもので代用するに過ぎない。この役割を果たすものが必要である。これがいわゆる万能の「STAP細胞」ではないのだろうか?「こん畜生」「負けてたまるか」と一生懸命頑張ると万能細胞が発生して対応してくれるのではないかと思っている。
我々はややもすると自分だけの閉鎖空間だけで生きていると思っている。
そんなことはないのである。毎日の繰り返しを見てみるとあたかも閉鎖空間のエントロピー一定の中で可逆的な生活をしているように錯覚するが、全体を見渡せば開放空間の中で不可逆的な一生を送っているのである。よって、最終的には無限空間の中に霧散し死を迎えることとなる。無限空間なしに生きられないし、無限空間の中に無秩序の物質として消滅してゆくのである。そんな思いをしながらエントロピーを回顧している。
微視的な考えをすると勘違いしてしまう。
微視的な事実が真実と勘違いしてしまう。世の中はたくさんの微視的な物が集合して成り立っている。そして微視的な物は無限大に存在する。ここに巨視的な見方を取り入れればもっと本質を見抜くことができるであろう。微視的な事実が限定的であれば、その事実を可能な限り大量に積み上げる努力をすべきである。その全体の微視的な事実の総和から全体の巨視的なより正確な事実を確率的に推測できる。その場限りの微視的な事実に即座に右往左往することの愚かさを反省するものである。
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