オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

限界の突破の限界

2007年08月03日 | Weblog

私は子供の頃、変に好奇心が強い性格であったようで、

 時計やラジオなどを分解するのが大好きであった。家にあった時計やラジオは一度以上は「分解」の試練を受けたと思ってもいいくらいであった。昔の機械は簡単でたいていはネジ回しひとつで分解できた。分解が終わると組立であるが、たいていは組立に失敗し、動かないもしくは鳴らないという状況になる。そこで「修理」が始まる。なぜ動かないのかなぜ鳴らないのか一生懸命探求することになる。オモチャなんか要らないのである。オモチャとして買ってもらったのは「道具」である。しかも大人が使うのと同じ「専用の道具」である。例えばナイフであり工具である。当然大人の持っているものを拝借するのは日常茶飯事であった。

私の手を見ると、その頃の履歴が残っている。

 左の親指の付け根の傷は、誤って鋸で曳いた傷であり白い骨が見えるくらいの怪我であったことを覚えている。左の人差し指の付け根にある傷は、彫刻刀やキリやドライバで勢い余ってつけたものである。左の人差し指の指先付近の傷はナイフがすべったものである。右手も親指の付け根から人差し指の付け根にわたって傷がある。右手で物を固定して何かの工作をしていたときの怪我の痕である。時計のゼンマイが勢い良くはねて飛び出した弾みにできた傷もある。自分ではこれらの傷は男の勲章だと思って自己満足している。

一度なんか、通電している電気コードを直接ペンチで切ったことがある。

 まさか、子供とは言え普通に通電されている電気コードを切るわけがないが(この頃の子供はやるかも知れない)、どういうわけか片方が裸線のままでぶら下がっていたので、まさか通電されているとは思わなかった。「バチン」と言う音とともに小さな閃光が走ってペンチの刃の部分が見事に溶けてしまった。幸い握り手は絶縁されておりペンチをダメにしただけで事なきを得た。確かこの時は5寸釘とエナメル線を使って100V交流のモーターの模型を家で造っていたときだったと思う。モーターのブラシは粉歯磨きのアルミ缶を利用したのを覚えている。シャリシャリシャリシャリと見事に回転したときの感動は今でも記憶にある。

ところで、分解して組み立てた物は通常はうまく動かない。

 分解はできるが、組み立てる方法が解らない。通常は分解した逆順に組み立てれば元に戻るはずであるが、なかなかそうはいかない。どうしたら正常に動作するかあれこれ試行錯誤することになる。オモチャがなくてもゲーム機がなくても夢中になって遊んだものである。そしてその結果、その当時の我が家にある時計やラジオはほとんどが欠陥品であった。一生懸命「修理」したにしても完動品ではない。動かすのにはコツが要るし、動かなくなった時には直す方法がある。それを知っているのは本人だけであり、家族は大いに困ったと思う。

「修理」と言っても、取扱説明書や修理マニュアルがあるわけではない。

 ここをこうしたらどうなるだろう、あそこをああしたらどうなるだろう、と言う手探りの「修理」である。それによって構造も動作も理解できるようになる。そして新たな発見も生まれる。その知識を生かして例えば24時間時計やマイク付きのラジオでも造ろうと思えば作れる。それを便利だという人には受け入れられるが、そのままがいいと言う人もいるし、そんなの要らないと言う人もいる。また、本来ない機能を付け加えるとどうしても回路設計に無理が生じる。本来であれば、最初から「24時間時計」や「マイク付きラジオ」で設計すべきなのである。子供である私には最初から設計する能力なんてあるわけがない。

「物」だけが意味を持つわけではない、「物の組み合わせ方」にも意味がある。

 一般的には広義にこれを「ハードウェア」と「ソフトウェア」という言い方をしている。何もコンピュータの機械がハードウェアでこれを動かすプログラムがソフトウェアと言うだけではない。機械そのものを正常に動かすために必要な技術やノウハウも広義には立派な「ソフトウェア」である。物そのものを単純化した回路である「1」「0」の組み合わせにしたのがコンピュータのプログラムであり「物の組み合わせ方」と言う意味では同じである。

通常、自然界には最初から組み合わさっている物と自分で組み合わせた物がある。

 人間が自分で組み合わせた物が人工物であろう。最初から組み合わさっている物は自然物である。人工物は自然物をお手本にして人間が造った物である。それでは、今現在人工物と自然物はどちらが多いのであろう。と言うよりも人間は自然物をどこまで真似できたのだろう。

私はどう考えても人間が解明した自然物はまだほんの一部分だと言う気がする。

 それなのにどういうわけか科学万能主義が跋扈している。まるで子供が時計やラジオをいじくり回して得意になっているかのように「自然」をいじくり回している。いじくり回すのが悪いとは言わないが全体に占める自分の立場はしっかりと認識してもらいたいと思うし、自然の創造物そのものを自分の手で創ることには限界があり安易にやるべきではないことを認識すべきだと思う。

科学は自然の限界を突破(ブレイクスルー)することに意義を見出すようである。

 今までの自然のままでは気に入らない。自然の限界に挑戦し、それを突破することに意義を見出す。その限界の突破がなければ意義が薄れるし価値がない。自然のままで良ければ何も改革する必要はなく、今まで通りで何も問題ない。ただの自然現象を解明するだけの科学では自然を変えることはできない。よって自然にありとあらゆる手を加え、様々な試行錯誤を繰り返し、自然にないものを作りだして行く。基本的には自然のままでも問題はないと思われる分野に対してもである。

私は科学が自然を越えることは永久にできないと思う。

 たとえできたにしてもその時は全てが「人工物」で「自然物」はなくなっている。「物」は同じでも「組み合わせ方」は全く異なる世界が広がっている。それは自然が全て失われたことでもある。それが理想の世界でなくただの破壊にならなければいいと危惧している。限界を突破することにも限界が来ている。なぜならば過去にやり残した課題が多すぎるからである。最先端を突き進むだけの科学は考え直さなければならないのかも知れない。そして自分の過去に来た道と足下をもう一度しっかりと見つめ直し、この先自然と調和してどのように歩んでゆくのか考え直す必要があるのかも知れない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マルチメディアの落とし穴 | トップ | 電力のネットワーク化の提言 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事