オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

子供の頃の思い出

2018年02月04日 | Weblog
子育ては終わって、娘達は独立して家を出て行った。

 そして、その娘が子育てをしている。娘達に子供の頃の思い出を聞いてみると、5歳頃までのことはほとんど覚えていない。まぁ、その頃は昨日、今日、明日の概念もない状態で、ただ、闇雲に必死に生きていたんだろうから仕方ないが、だからと言ってその経験が全く役に立っていないかと思うのは早計である。その全く覚えていないとりとめのない潜在的な記憶の概念が今の人格の根底をなしているのだと思う。それがないと今の自分が形成されないのではないかと思っている。決して無駄ではないし、無駄だと思って諦めたり手抜きをしたりすることは以後の人格形成に大いなる影響を及ぼす。

自分自身も思い返してみると、幼少の頃の記憶は曖昧である。

 抽象的であり、情念的であり、自分の喜怒哀楽の感情を抽象画で表現したような記憶しか残っていない。私の場合は恐怖と不安と逃避の印象が強かった。いつも恐怖に怯えて、不安な状態で、それから逃れるため逃避を繰り返していた気がする。それが何だったかは具体的には定かでないが、たぶん、生きることに対する弱さの象徴だったのかもしれない。それを克服して今の自分がある。そのわけのわからないモヤモヤとしたものは私にとって人生の通過点において重要で欠かすことのできないものだったと確信している。これがあってこその今の自分があると思っている。

我々人間が物事を為そうとする時、その起点は曖昧である。

 いろいろな訳の解らないものが組み合わさって、混沌の中から生まれてくる。結局は何が生まれるかは自分自身にもよくは解らない。とにかく生まれるのである。その生まれたものを大事にして育てていくと、自分自身の大切なものとして具体的に現れてくるし、それが自分自身を形成し自分の一部として成長し、それが生き甲斐にも信念にも自分の価値にもなって行く。その道程は自分自身の経験に裏付けされた膨大な記憶であり、その一つ一つを具体的には表現できないが、とにかく曖昧模糊とした一塊の記憶の集大成である。それ故に、なぜそうなったかを具体的に表現できない。後付けの説明のためその中の一部を取り出して周囲も自分も納得させているだけである。

この曖昧なものを大事にしたいものだ。

 ところが、この頃の風潮として、この曖昧なものを許容しない傾向がある。そして、後付けでもいいから納得して説明できるものを要求し、それでもって目的を達して安心するようである。当然、具体的な成果が得られないものは無駄だとして切り捨てられる。曖昧なものを曖昧なまま育てようとする気はさらさらないようである。幼少期の子育てにもそれが見られる。自分の子育ての努力が成果としてすぐに現れないと無駄だと思ってしまう。そしてやめてしまう。それではいけないだろうと思う。それは親側の一方的な考えであって、子供は混沌とした思考の中でもがき苦しんで、自分自身で何かを見つけ出そうとしているのである。

幼児期の子供の教育は大人が全身全霊でやるべきなのである。

 それこそ、真剣勝負であるとも言える。そんなことを言うと、多大な労力と責任を負うと誤解するかもしれないが、そんなことはない。親と対等の一人格として子供を扱うのである。解っても解らなくてもいい、目に見える成果が出なくてもいい、子供が理解しているのかさえ判らなくていい、とにかく一生懸命に自分の最善を尽くして子供と対峙するのである。親も大変ではあるだろうが、ここで手抜きをすると、将来の人格に大きく影響をしてくることを肝に銘ずる必要がある。この期間で得られた曖昧模糊とした得体のしれない記憶なり感情なりが大切であり、これを土台にして具体的な何かが生まれ、具体的な行動と記憶が育ってゆくのである。

面倒のかからない子育てが求められている。

 手のかからない子が良い子で、手のかかる子は悪い子にされてしまう。私的に言うと、手のかからない子ほどある意味で発達障害なのかもしれない。周囲の環境に無頓着で興味を示さないし、感情を表さないで、行動も不活発な子は子育てする側には手がかからなくていいのかもしれないが、ちょっと問題がありそうであり、そうなるような子育てを目指すのも大いに間違いではないだろうか。「多動症」という病気があるというが、幼児期は多動症で結構である。この多動症に一つ一つ対応してやることが成長した後の「多動症」をなくすのだと思う。これを放置したままにすると、いつまで経っても多動症のままだと思う。

我が家の娘には、3歳までは子供との真剣勝負だと言い聞かせている。

 おかげで、スクスクとした成長記録を残している。このまま健全に育ってほしいと願っている。曖昧模糊とした経験の積み重ねが新たな発見と成長を促して、一つ一つ人間としての、いや生物としての能力を獲得してゆく。周囲で見ている側もその成長ぶりに目を見張るものがある。本当に人間って、いや生物は素晴らしいものである。こんな自然の現象を感慨深く見守っているこの頃である。そして、忘れてならないのは、自分も同じ人間であり生物なのである。まだまだ成長の領域はたくさん残っている。大いに子供の成長を眺めながら自分の人生充実もこのようにありたいものだと願っている。自然の中で自然に生かされ自然に生きたいものである。

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