オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

反面教師

2019年03月05日 | Weblog
反面教師になれる人はある意味で人格者である。

 人格者でなければ反面教師になり得ない。直すべき欠陥部分を正せば立派な人物になる人である。支離滅裂でどうしようもない人物の悪いところからいくら教訓を引き出して反面教師としようとしても、その人から直すべき欠陥部分をなくしたら、支離滅裂でどうしようもないものしか残らない。誰もそんな人を悪い意味でのお手本にしようとはしないだろう。少なくとも、自分でもやりそうな将来やるかもしれない悪いことを他人の中に客観的に見て悪いことだと再認識してやめる努力をするきっかけが反面教師なのではないかと思う。

全くの異星人から教訓を学ぶことは難しい。

 新しい概念を取り入れることはできるが、たぶんそのまま模倣したり反面教師としたりしても意味がないと思う。自分を殺して異星人を目指すのなら別だが、物理的にも現実的にも異星人と同化してゆくことは無理だろう。そう考えてゆくと、我々の反面教師とするのは人格者なのである。人格者ではあるが、これだけ直せばもっと素晴らしい人格者になるのにと思うところに反面教師の意味がある。人間は完璧な人はいない。その不完全な部分を教訓として反面教師として取り込まなければならない。

世の中の凶悪犯罪人は反面教師であろうか?

 私はそうではないと思う。本人の全人格を知る由もないが、凶悪な犯罪を目にしてこの人の悪いところを私も直そうとは思わない。私にはこの凶悪な犯罪は全く関係ない世界なのである。教訓となるのは、こんな凶悪犯罪を犯す人がいるという警告と、巻き込まれないように注意することと、巻き込まれた時の対処法であろうか。これは反面教師でも何でもない。自分の人格を高めるわけでもない。ただ、自分を防護しているだけである。こうしてお互いが自分を防護し始めると何とも窮屈な社会になってしまう。

凶悪犯罪人を生み出す元凶を見つけ出さなければならない。

 それは何なのだろう。家庭環境や、社会環境や、職場環境や、教育や、精神要素や身体要素もあるのだろうが、最初の悪いことを成す要因は一つのきっかけに過ぎない。どんなきっかけがあろうとも彼らを取り巻く環境が彼らを正しい方向に導く力を持つべきなのだろう。学校教育だけではない。教育は重要であるが学校教育だけで終わらせてはならない。良いことも悪いことも含めて大いに経験しこれを適正に判断して社会生活に順応できる人材を育てるのである。

凶悪犯罪人となってしまった人は、

 前述の環境から無視され置いてきぼりにされた人達なのだろう。誰も彼らに干渉し影響力を行使しようと思わなかったのだろう。周囲から異を唱えないということは、これでいいんだと思ってしまう。そしてそのまま育ってしまえば、その精神は確信となって人格すべてを満たしてしまう。こうなったら手の出しようがない。マインドコントロールか拷問か徹底的な矯正でしか直らないだろうが、これも無理かもしれないし、たとえできたにしても欠陥人間になってしまうだろうし、許されることではない。

メディアに登場する凶悪犯罪は、

 犯罪の凶暴性とか残忍性とかを報道して、市民に警告を発しているが、このような人達を生み出さないようにみんなで努力しよう、そのような環境を作り出そうとは言わない。最終的には犯人の刑罰であり、更生であり、社会復帰であるが、凶悪犯罪人を生み出す環境の整備についてはあまり触れられないし、次々と新しい凶悪犯罪人が生み出されている。何とかしなければならない。他人事ではないのである。国民、市民一人一人もその責務を持っている。

周囲に小さな犯罪の芽は日常茶飯事に発生している。

 たとえ幼児であっても我々自身が注意してやる社会的な義務がある。見過ごしてはならないのである。その一つの行為が後々にその子供の将来を大きく左右することもあるし、左右すると確信するのである。その子の将来のために心を鬼にしてお手本を見せてやるのである。やり方はいろいろあるだろうし、その人なりのやり方もあるだろう。やり方の賛否両論もあるだろうが、とにかくやらないよりもましである。強引であろうと陰険であろうと冷淡であろうといいではないか。悪いことは事実である。男性も女性も大いに父性を発揮したいものである。

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